4月20日 イースター礼拝説教

ヨハネによる福音書2:1〜12「新しい時の始まり」
 今日は主イエスの復活を記念するイースターの礼拝です。主の日はどれもみな主イエスの復活を記念する日なのですが、受難週を経て迎える主の日は特にそのことを覚えて礼拝をささげます。神がご自分のひとり子を与えるほどに愛してくださったこの世は、そのひとり子の死と復活によって新しい時を歩み始めました。人間の罪深さとそれがもたらす様々なゆがみや倒錯の中にありながら、罪に支配されず、死では終わらない道が開かれたことを覚えながら、神への感謝と讃美のうちにこの礼拝を守りたいと思います。
 そのために今日与えられたのは、ヨハネによる福音書2:1以下のみ言葉です。ここは主イエスがガリラヤのカナで行われた奇跡を記しています。主イエスも招かれていた婚礼の席でぶどう酒が足りなくなったとき、主イエスが水をぶどう酒に変えてくださることでその危機が回避されたという出来事です。これはしるしと呼ばれています。起こっていること自体はもちろんですが、それによって何かが示されている。そんな出来事としてこのカナでの奇跡がとらえられています。ではこれは何を指し示しているのでしょうか。それは新しい時の始まりです。これまで続いてきた古いときが終わり、新しい時が始まろうとしている。そのことをこの出来事は指し示しているのです。
 そのことは婚宴のために用意されていたぶどう酒が足りなくなったこと、そのかわりに主イエスが水をもっとよいぶどう酒に変えたことに表されています。結婚式の後の婚宴は何日にもわたって行われたはずです。そのためのぶどう酒ですから、かなりの量が用意されたことでしょう。しかし、理由は分かりませんが、準備した量では足りなくなってしまいました。このことが、古い時代の不十分さを表していると考えることができます。古い時代とは、旧約のみによって生きてきた時代のことを指します。戒めを守ることによって救いにあずかることを求めた時代と言ってもいいかもしれません。福音書にしばしば出てくるファリサイ派と呼ばれる律法学者たちがその代表です。彼らはとてもまじめな人たちです。神がくださった戒めを大切にしようとして熱心に取り組み続けていました。しかし、その努力をどれだけ積み上げても救いに至るには足りません。婚宴のために準備されていたぶどう酒が足りなくなったと言うことがそのことと重なります。準備した人は婚宴が終わるまで十分もつだけの量を考えて用意していたはずです。しかし、あらかじめ予想して準備していた分では間に合わなくなってしまいました。そのことは、人が自分で様々なことを考え合わせて、これで自分は救われるだろうと予想していることでは間に合わないことを示しています。古い時代に生きる人々は、自分で行う正しい行いを積み上げていけば、それで神の国につながる道が開かれると考えていました。しかし、人が自分で準備したものをどれだけ積み上げても神の国に至ることはできません。なぜなら、わたしたち人間はどこまでも神に背く罪人であって、どれだけのことをしたとしてもその罪をぬぐい去ることはできないからです。実際、日々に起こる様々な出来事の中にわたしたち人間の罪深さを感じないですむ日はありません。よりよい世界やよりよいあり方を願わない人はいないと思いますし、全体的な方向を考えれば、人類はよりよい世界を作り出すために努力してきたと言えるだろうと思います。そして確かに様々な面で進歩もしてきました。それにもかかわらず、命が喜ばれていないと感じる現実が毎日、毎日、次々作り出されてしまいます。それはたいてい隠されていて普通に暮らしていると見えないのだけれど、しかしその「普通」といわれることの背後にどれだけの悲しみや苦しみがあることでしょうか。わたしたち人間は本当に貧しいし不十分でしかない。そう気付かされる出来事に出会うことがしばしばです。そしてそんなとき、神のご支配を暗くするようなことを行ってしまう弱さや貧しさを自分も抱えていることを思わされるのです。そんなわたしたちの有様をこの福音書ははじめの部分で暗闇と呼んでいました。その闇を、わたしたちは自分で振り払うことはできないのです。
 しかしその闇の中に新しい道が開かれます。闇の中にまことの光である主イエスが来てくださったからです。主イエスは、罪の闇がおおうこの世の中に、恵みと真理に満ちあふれる神の栄光を輝かせてくださいました。人の罪はあまりに深い。しかし主イエスが現された神の栄光は、そのあまりに深い罪に打ち勝ちます。主イエスの栄光とは、主イエス自らが十字架にあげられ、死人の中から復活させられて天に上げられることにおいて輝くものだからです。そんな主イエスの成し遂げられる御業がカナの婚礼において示されました。そこに置かれていた清めの水を入れるための水がめに汲んだ水が良いぶどう酒に変えられたことがそのことを表しています。ぶどう酒は主イエスの血によって成し遂げられる罪の赦しの御業を示していると理解できます。古い時代に用いられてきた水による清めには限界がありました。それはやがて来る救いを指し示すことはできてもそれ自体に罪を清める力はありませんでした。しかし、主イエスが十字架で流してくださる血には罪人を清め、神の子とする力を持ちます。その御業がもたらすものは、古い時代に清めの水がもたらしていたものにまさるものです。主イエスが備えてくださるぶどう酒の方がよりよいものだったようにです。そのよさとは、神とわたしたちが1つの交わりのうちに結ばれることにあります。少し前に読んだアンデレたちが弟子となったことを記した箇所に「泊まる」という言葉がありました。それは留まるという意味でもあり、彼らが主イエスとともにとどまること、主イエスとの交わりの中につながれ、養われることも含んでいるとお話ししました。主イエスのもとにとどまること、あるいは主イエスがおられるところにいることは主イエスとの交わりの内におかれることを表し、さらにそれは父なる神との交わりにつながれることも意味します。その交わりにこそ永遠の命が宿ります。17:3で、永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです、と主イエスがおっしゃっておられる通りです。主イエスにおいて神を知るとき、わたしたちは神との交わりの中につながれます。そして神がいつまでも生きておられるお方であるから、そのお方との交わりの相手とされるわたしたちもまた神と共にいつまでも生きていきます。その交わりにつながれることこそ永遠の命にあずかることなのです。主イエスは、そんな命の交わりをもたらすために世に来てくださいました。そして確かにそのための御業を成し遂げてくださいました。そのことを、このカナでの出来事は指し示しているのです。
 主イエスが開いてくださった新しい時、それはわたしたちが神と共にあり、神と共に生きることをゆるされるときの始まりでした。罪は今も深くわたしたちをとらえています。わたしたちはその闇を振り払うことができません。けれど、神が闇の中に慈しみとまことに満ちた神の栄光の光を輝かせてくださることによって、神ご自身がこの深い闇を受けとめ、打ち勝ち、乗り越えていく道を備えてくださいました。その道こそ、わたしが道であり、真理であり、命であるとおっしゃった主イエスです。この主イエスを信じて歩むとき、闇の中にも道があることを知るでしょう。どんなに深く人の罪がこの世を覆い、わたしたちを迷わせたり、悩ませたりすることがあったとしても、その試みの中でも決して途絶えることなく神に向かってわたしたちを歩ませてくれる道があることを知るのです。主イエスは十字架と復活の主であられるから、どんなに暗い闇の中にも共にいてくださるし、共に歩んでくださるからです。だからわたしたちは、どんなときもこのお方と共にあることをあきらめる必要がありません。どんなときも、主イエスを信じ、主イエスに従うものとして生きることをあきらめる必要がありません。その道は、必ず続いていくし、わたしたちをかならず神のもとまで導いてくれるのです。そう信じることができるのは、古い時代の水のおかげではなく、それが指し示していた主イエスによる贖いのためです。そのことを、今日、また新たに心に留めたいと思います。そして様々な課題や重荷を負いながら生きるこの世を、主イエスと共に歩んでいきたいと願うのです。