祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から



 

エレミヤ書222030

 

 今日読んだ20節以下は2つの部分に分かれています。1つ目は2023節です。ここにはエルサレムの町に向けて語られた言葉が記されています。直接エルサレムという名は出て来ませんが、語られている内容からエルサレムに向けての言葉だと理解できます。もちろん、町自体というよりはそこにいる人々に向けて語られている言葉です。その内容は、この町が昔からずっとかたくなだったことに対する非難とその結果受けることになる裁きです。

 

 まずエレミヤは町に向かって、レバノンやバシャンやアバリムで叫び声を上げるよう命じています。レバノンはガリラヤ湖よりずっと北にある3000メートル級の山々のある地域です。バシャンはガリラヤ湖の東側に広がる地域で、預言者の言葉にはしばしばとても豊かな場所として出て来ます。アバリムはずっと南に下って、死海の東側の山地地帯で、その一番北にネボ山があります。なぜこれらの地名が挙げられているのかは、説明もないためよく分かりません。ただ、それらの場所に行って叫び声を上げるよう命じられているのは、どこからも助けが来ないことを知って嘆きの声をあげるしかない状況に追い込まれているからだということは分かります。お前たちの愛人というのは、エルサレムを助けるために来てくれるはずの諸外国のことを指しています。しかし、どこまで出かけて行ってみてもそんな助け手は表れません。エルサレムはどうすることもできないほど厳しい危機の時を迎えているのです。

 

 この状況は、バビロンによって町が包囲されることによってもたらされているものと考えられます。このすぐ前に語られていたのはヨヤキム王についての言葉でした。そしてこのあと24節から語られるのは、そのヨヤキムの子であるコンヤ、列王記ではヨヤキンという名で呼ばれています、についての言葉です。ヨヤキムはバビロンによってエルサレムが包囲されている最中になくなります。そしてあとを継いだコンヤは3ヶ月だけ王位にあり、その後バビロンに降伏して第1回目のバビロン捕囚が行われます。この2023節の言葉は、ヨヤキムがなくなる少し前からコンヤがあとを継いだ頃の言葉ではないかと考えられます。ヨヤキムとコンヤに対する言葉の間にこれが置かれているということからもそう考えてよいのではないかと思われます。その頃エルサレムはバビロンによって包囲されていました。それはヨヤキムがバビロンに反逆したからです。彼は元々エジプトの王によって王位につけられた人であり、その力を背景にして国を治めていました。それで、この前読んだように、自分の住む王宮を派手に増築するようなことも行うことができました。しかしエジプトがバビロンに敗れてからはバビロンに従わなければならなくなります。3年はそれに我慢しますが、3年たって彼は反旗を翻します。彼が王になったいきさつを考えれば、エジプトの力を頼りにしながらバビロンの支配を脱し、また以前のような統治が行えるようになることを期待したのかもしれません。だとすると、愛人というのは具体的にはエジプトのことを指していると考えられます。しかし、どこまで出かけて行っても助けてくれるはずの愛人の姿は見つけられません。結局エルサレムは持ちこたえられなくなり、バビロンによって破られることになります。その状況がこの言葉には映し出されています。

 

 そのような破滅をもたらすことになった原因について21節では若いときからのかたくなさが指摘されます。「お前が栄えていたころ」とありますから、神は表だって問題が現れていなかった頃から人々に対して警告してこられたと言われます。それは、たとえばイザヤとかミカといった預言者たちの活動のことを指していると考えられるでしょう。エレミヤにしても、ヨシヤ王の時代にはすでに働いていたわけですから、神の言葉は必要なときにいつでも与えられていたと言うことが出来ます。しかし、このような危機的な状況に追い詰められていなかったとき、人々はいくら預言者の言葉を聞いてもそれを受けとめようとはしてきませんでした。616を見ると、さまざまな道に立って眺めよと神は呼びかけ、人々がどの道が自分たちを幸いに導くかを見極めて正しく選ぶよう語っておられます。しかしそれに対する人々の答えは「そこを歩むことをしない」というものでした。またその次の17節では、耳を澄まして角笛の響きを待てと命じたけれど、人々は「耳を澄まして待つことはしない」と答えたと言われています。それがイスラエルの人々の昔からの歩みだと神はおっしゃいます。もちろん、ヨシヤ王のように神に聞き従う王もいました。しかし、ヨシヤのように悔い改めて神に立ち帰る王は多くありません。ヒゼキヤやヨシヤがそれまでの間違いを正しても、すぐもとの間違いへ逆戻りしてしまいます。わたしたち人間は罪を犯すことに傾いているといわれるとおりの歩みをイスラエルは続けてきたと言えるでしょう。その罪を神は裁かれます。その裁きを止められるものはありません。23節でレバノンに住み、レバノン杉に巣を作っているものよと言われています。これは、すぐ前でヨヤキムについて指摘されていたようなことが考えられているのだろうと思われます。15節で、あなたはレバノン杉を多く得れば立派な王だと思うのか、と言われていました。そのことに象徴されるように、高価なレバノン杉を豊富に用いて立派な建物を建てることが王の権威を表すわけではありません。行うべきことは神のご意志に従った秩序をたてることです。王の権威はそのために与えられていました。またそのような王に治められることを願い、それに従うことが人々に求められていました。しかしどちらもそれをしてきませんでした。それゆえ神はこの町に恥をもたらすとおっしゃるのです。

 

 次の24節以下はヨヤキムの次に王となったコンヤについての言葉です。ここで語られていることは、その前で語られたエルサレムに向けての言葉の延長線上にあると言えます。神は「わたしは生きている」と宣言され、ご自分の右手から指輪を抜き取るとおっしゃいます。この指輪は王として正式な文書に刻印を押すときに用いるもののことで、ここではそれがコンヤを表すたとえとして用いられています。その指輪が神の指にはめられていたということは、本来支配者としての権威をもっていらっしゃるのは神ご自身であって、王であるコンヤはその神に用いられる器であることを示していると言えるでしょう。神が彼を王として定め、権威をおゆだねになったからこそ、彼は王であることができました。しかし、列王記によれば、彼はヨシヤのように心を尽くして神に仕えようとはせず、悪しき先祖にならって、主の目に悪とされることを行う王でした。彼がおかれていたのはとても厳しい状況であり、すでにエルサレムはバビロンによって包囲されていて、どこからの助けも期待できないところまで追い詰められていました。その状況を考えれば、彼にできることはほとんどなかったと言うべきかもしれません。しかしエレミヤはその前から北から災いが臨むと語ってきました。そしてコンヤの父であるヨヤキムの時から、その北からの災いとはバビロンのことであるとはっきり語っています。エレミヤがそれを語ったのは、王を始め、人々がそれを聞いて悔い改めるかもしれないと神がお考えになったからです。その言葉をコンヤも知っていたでしょう。それならば、この危機の中で何をすることが神のご意志なのかを問うべきだったはずです。この危機を前にして悔い改め、もう一度神に憐れみを願うなら、神は命の道を示してくださったはずでした。それに従うことは不本意に感じられたかもしれません。神はバビロンに降伏することをお求めになるからです。しかしそこに神のご意志があると信じて進むことが彼には求められていたのです。けれど彼はそうはしませんでした。それゆえ神は彼も彼の母も別の国へ連れて行かれ、二度と帰ってくることはできないと宣言されるのです。

 

 繁栄し、豊かさの中にあるときに悔い改めるよう呼びかけられても、それをまともに受けとめることは難しいかもしれません。目に見える現状としては特に問題があるようには感じられないはずだからです。たぶんわたしたちが同じ状況におかれても同じではなかったかと思います。その結果エルサレムはバビロンの手に落ち、多くの人が捕囚となって連れて行かれることになります。そこまでいかないと、わたしたちは自分のかたくなさや愚かさに気付くことができないほど罪深いということかもしれません。そのことを恐れをもって受けとめたいと思います。それと共に、そのことを誰よりもよく知っておられる神が繰り返し語りかけ、呼んでいてくださることを覚えたいと思います。そしてその呼びかけを聞き取り、答えることができる低い心を与えてくださるよう祈りながら、み言葉に聞き続けていきたいと思います。

 

 

 

《今週の祈祷主題》 「イースター礼拝のために」

 

主の復活を記念するイースター礼拝を兄弟姉妹たち、求道の友とともに守ることができるようお祈りください。罪と死が打ち破られ、永遠に断たれることのない交わりにつながれていることの幸いを覚え、新しい命に生きる喜びのうちに歩み出すことができますように。