祈りの部屋
集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。
み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。
現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。
第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から
第2,4水曜 教会で 午後2時から(Zoom併用)
エレミヤ書43:8〜13
ここから44章にかけてエレミヤの最後の預言が記されます。彼はゲダルヤ暗殺後エジプトに逃げていく人々に連れて行かれましたが、その後の消息はよく分かりません。バビロンはエジプトとの国境近くまでは攻めて行きますが、エレミヤがここで語っているような打撃を与えることなく引き返します。ですからエジプトに逃げた人々はそのままエジプトに留まったのだろうと考えられます。ただ、いつか故郷に帰りたいという気持ちは間違いなくあったでしょう。しかしそれは実現しないままになったと思われます。だとすれば、エレミヤはエジプトに連れて行かれたままその地で生涯を終えたと考えられます。彼が預言者として召されたのはヨシヤ王の時代でした。それからバビロン捕囚を経てユダが滅びるまで、約40年にわたって預言者として働き続けました。その最後がこのような形だったと考えると、彼の働きは報いられることの少ないものだったと言う他ないように思われます。実際、彼の生涯は様々な苦難に彩られていました。それでも彼は最後まで神に召されて派遣された預言者であり続けたということが彼の預言から分かります。
彼が最後に語った預言の初めの部分は、これまでも何度か行われた象徴的な行いによる預言でした。神は彼にタフパンヘスにあるファラオの宮殿の入口あたりに石を埋め込むようお命じになります。タフパンヘスはナイル川の下流地域にある町ですが、そこに宮殿が置かれていたということですからその地域の要衝にあたる町だったのでしょう。この宮殿はファラオがこの町を訪れたときに使う離宮のようなものと思われます。またパレスチナとの境界にも近い場所ですから、何かしらの役所のようなものがあったことも考えられます。その宮殿の入口の敷石の下に石を埋め込むよう命じられました。ここでは「モルタルで」と言われていますが、この言葉は旧約の中でもここにしか出てこないため具体的には分からないもののようで、他の日本語訳ではしっくいと訳されています。何かは特定するのは難しいかもしれませんが、大きな石をしっかりと動かされないように埋め込むために用いるものということは間違いないでしょう。そしてその石がバビロンの王の天蓋をはるための土台になると神はおっしゃいます。使ったのが大きな石だったことや、それをモルタルを使って埋め込んだことは、ここまでバビロンが来るということの確かさを表していると言えます。そこはエジプトの王の宮殿です。エジプトの王の権力や支配を象徴する場所だと言ってもいいところです。そこにバビロンの王がやって来て自分の王座を置くということは、バビロンの力がエジプトに勝ることを示します。ユダから逃げていった人々はエジプトまで行けばバビロンの力が及ぶことはないと考えていました。しかし彼らのその信頼はあてにはならないことを神はこうやってお示しになります。
実際のことを言えば、先に言ったように、バビロンはエジプトの国境までやっては来ますが戦わずに引き返していきます。だから、神がおっしゃったことははずれたと言うべきかもしれません。ですが、エジプトが、ユダの人たちが期待したように、本当に信頼できる存在となったのかと問うならどうでしょう。エジプトは彼らを保護したでしょうか。あるいは彼らをエルサレムに帰してくれて、もう一度国を建て直すために協力してくれる存在となったでしょうか。決してそうはなりません。逃げていった人々のその後について確かなことは分かりませんが、44:1を見るとエジプトの各地に住み着いた人々がいたことが分かります。その中には、およそ50年後バビロンから帰還した人々によって再建が始まったエルサレムに戻っていった人もいたかもしれませんが、しかしその人々が再建の中心になることはありません。エレミヤの語る神の言葉を無視して逃げた人の多くはそのままエジプトにい続けることになります。それは、彼らが信頼すべき相手を間違ったことの結果なのでです。
10節でエレミヤは神の言葉を取り次いでこう言っています。「わたしは使者を遣わして、わたしの僕であるバビロンの王ネブカドレツァルを招き寄せ」このエレミヤの言葉には、バビロンをエジプトまで行かせるのは神であることが表れています。また11節では「疫病に定められたものを疫病に、捕囚に定められたものを捕囚に、剣に定められたものを剣に渡す」と言われます。バビロンの兵士たちが行うのは殺戮だったり略奪だったりするわけですが、その結果ユダから逃げた人々には捕囚や疫病や剣による死といった苦難が臨むことになります。それを実際にもたらすのはバビロンです。でもそれはあらかじめ定められていたことであり、バビロンはその決定どおりの結果をもたらすに過ぎません。それを定めたのが神だと考えられているのは明らかです。神はバビロンもエジプトもご支配のもとにおき、ご自身の計画を実行するためにお用いになります。神とはそのようなお方であるということを、エレミヤは初めのころからずっと語ってきました。北から来る災いの預言にはそのことも含まれています。生涯が終わりに近づいたこのときもそれは変わりません。神はまことに神でいらっしゃって、造られたものすべてを治めておられます。そのお方への信頼と恐れこそが人を正しく導いてくれるのです。
ゲダルヤが暗殺されたとき、ユダの人々は「バビロンに従うことをとるか、それともエジプトに逃げることをとるか」の選択が迫られていると考えていたかもしれません。しかしそうではありません。彼らには「バビロンかエジプトか」という選択が迫られていたのではなく、「神を信じるのかそれともエジプトを信じるのか」という選択が迫られていたのであり、それはさらに突き詰めれば、「神の言葉をとるのかそれとも自分の思いや判断に従うのか」という選択だったのです。結局人々は自分の判断に従うことを選んでエジプトへ逃げていきました。そしてそこから帰ることはありませんでした。神ではなく自分を選んだ彼らには、神の民再建につながる道は開かれません。もちろん、未来永劫道が閉ざされてしまっているというわけではありません。もし帰るべき所に立ち帰るなら、すなわちエジプトでもなく自分でもなく神に向き直るなら、神はその人にも道を開いてくださるでしょう。そうでない限り、彼らの行く末に待っているのはただ滅びでしかないことをエレミヤは告げるのでした。
神の民の希望はただ神にあることを思います。エジプトに逃げた人々は彼らなりに将来を展望し、そこに希望があると信じてエジプトに行ったのでしょう。そしてその思いのままエジプトに住み続けた人もいたはずです。その人自身は、自分の選択は間違っていなかったと思っていたのかもしれませんし、それも一つの正解と言うこともできるでしょう。ただ、神の民としての将来は神ご自身にあるということはで忘れてはいけない大切なことだと教えられます。どのような将来を思い描き、どこを目指すのか、そしてその将来に向かって進むために今何をしないといけないのか、それをわたしたちは神に聞かなければなりませんし、神はそれをわたしたちに語ってくださるでしょう。ただ、み言葉が示すのは必ずしもわたしたちの願いどおりのこととは限りませんし、選択するのが難しいことかもしれません。エジプトに逃げた人たちにとって、ユダに留まってバビロンに従うという選択をすることは、気持ちの上ではとても恐いことであり、避けたいと願わずにいられないことでした。しかしそこに神のご意志があると示されたのであれば、それに従うことを選び取っていくことが求められます。しかし彼らは違う道を選びました。その結果、神が計画しておられた神の民再建に携わるのは彼らではなくバビロンに連れて行かれた人々になります。もし彼らがエレミヤの言葉を信じて留まっていたら、彼らも再建のための大切な土台となったに違いありません。もし彼らがエルサレムに残って、約50年後バビロンから帰ってくる人たちをエルサレムで迎えることができたとしたら、それはどれほどうれしいことだっただろうと思います。神に従う道を選ぶなら、そのような将来を望み見ることもできはずでした。わたしたちが目指すのはどこでしょう。そのことが示されるようにと願いながら、祈りつつみ言葉に聞いていきたいと思います。そして神が備えてくださる将来に向けての一歩を、小さくても踏み出して行きたいと思います。
《今週の祈祷主題》「大会伝道地を覚えて」
現在大会伝道地は岡山と沖縄の2つです。岡山は神学校卒業後赴任した安彦先生が昨年教師に任職され、牧師として迎えられました。先生の赴任以来伝道と教会形成の歩みが着実に続けられています。沖縄は町による区画整理事業が予定どおり進まず、会堂建築の着工は2031〜32年頃と予想されているようです。様々な課題と向き合いながら続けられてきた沖縄における宣教の業がこれからも継続されていくことを願います。日本キリスト教会全体で覚えるこの2つの伝道所のためにお祈りください。
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