祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行います。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から



 

エレミヤ書132327

 

 今日読んだのはユダの抱える罪の深さが指摘される箇所です。その深さがクシュ人の皮膚の色や豹の模様をたとえに用いながら表現されます。今では肌の色を使ったたとえは使わない方がよいのかもしれませんが、古代のイスラエルの人々にとっては、変わらないものや変えようのないもののたとえとしてこれが一般的に使われていたのでしょう。確かに、古代の人々にとって肌の色は自分では変えられないものだったに違いありません。もちろん豹の模様もです。その変えようのない肌や模様をもし変えられるというのなら、あなたたちが正しいものになるということもあり得るかもしれないとエレミヤは語ります。当然、答えはノーです。肌や模様を自分で変えることができないのと同じくらい、罪に支配されたユダの有様を変えることはできないと神は判断なさいます。それくらい、ユダは深く罪にとらわれてしまっているということです。

 

 このことは、ユダは自分が犯し続けてきた罪に対する責めから逃れることは決してできないということを意味しています。24節以下で神はユダに対する裁きを宣言していらっしゃいます。24節では、風に吹かれるもみ殻という、他でもよく使われているたとえが用いられています。もみ殻は少しの風でも飛んでいってしまいます。それと同じように、ユダは神の裁きを受けるとき、一切持ちこたえることができません。結局は滅んでしまって跡形もなくなってしまうことになります。それがユダの運命だと25節で告げられます。運命と言われていますが、それは宿命とか知らないうちに決まってしまっていた筋道ということではありません。わたしが定めたお前の分と次の行で言われています。ユダの運命とは神によって定められたものであり、当然受けるべき当たり前のものです。その運命は苛酷なものですが、しかしそれはユダが自分で招いたものです。お前がわたしを忘れ、空しいものにより頼んだからだ、と25節の後半で言われている通りです。空しいものというのは、しばしば偶像を表します。事実、ユダにおいても繰り返し偶像が拝まれてきました。たとえば、シリア・エフライム戦争がおこり、北イスラエルが同盟国と共にユダに攻めてきたときに王だったアハズは、アッシリアに助けを求めて危機を脱しますけれど、その後アッシリア王と会い、そこにあった祭壇を見て同じものを祭司に作らせます。祭司はアハズがエルサレムに帰ってくるまでの間にそれを完成させて神殿におきました。そうやって助けてもらったことをきっかけに、アッシリアの神々のための祭壇が神殿に持ち込まれました。その祭壇を使って献げられていたのは律法で定められていた犠牲だったかもしれませんが、神がお決めになったやり方ではないやり方が持ち込まれたということは間違いありません。あるいはその後バビロンが台頭してくる前に王となったマナセはとても積極的に異教の習慣を取り入れたため、ユダの民は主なる神が滅ぼしたどんな民よりもさらに悪いことをした、と列王記下219で語られています。そのマナセの罪のためにバビロン捕囚が起こったのだとも列王記は記します。たとえばそういったことのように、イスラエルの神への信頼を貫くことができず、他の様々なものを取り入れて、それによって自分を守ろうとすることをユダは繰り返してきました。しかし、彼らが頼りにしたものは「空しいもの」でしかありません。中身がなく、力も無いものです。いくら信頼したところで、その信頼はむくわれることがありません。それゆえ、空しい偶像を信じるものは、自らを空しいものにしてしまうことになります。ユダはその運命から決して逃れることはできないのです。

 

 ただ、そのことに気付くことはとても難しいと言わざるを得ません。ここにも自分の罪に気づくことのできないユダの様子が描かれています。まず26節で、ユダの恥をあらわにしたのはこのわたしだと神は言っておられます。神を信頼せず、他の様々なもののあとを追うユダがどんなに恥ずべきことをしてきたかを神ご自身が明らかになさいます。それは、様々な国によるユダに対する攻撃を通して行われることと言えます。特に、エレミヤの働いた時代ということを考えると、バビロンによる攻撃とそれによるエルサレムの破壊ということを考えることができるでしょう。いくらユダが熱心に拝んでいるものであったとしても、それらは結局ユダを破滅から救い出すことができません。ユダの行ってきたことは全くの無駄だったということが明らかになるのです。恥をあらわにすると言われていることは、直接にはそのことを指していると考えられます。それは神がご自身でなさったことです。つまり、ユダが自分で過ちに気がついて神に立ち帰るということはしなかったし、できなかったというわけです。そこに、罪が持つ恐ろしさがあります。人間は、自分では気づけないまま罪の中へより深く入り込んでいくのです。そして、自分から罪の中へはまり込んでいき、そのままになってしまうことそれ自体がすでに神の裁きであると言うことも出来ます。

 

 ですが、神はユダの恥ずべきところを明らかにするというだけでなく、それを裁くとおっしゃいます。罪に支配されたまま放置なさるというのではなく、ユダがどれだけ過ちを犯してきたかを明らかになさるのです。当然それには厳しい裁きが伴っています。しかし、自分の罪に気づくことができないわたしたちにとっては、神の裁きは自分の罪を知ることのできる大事な機会でもあります。神がなさる裁きをその通り受け入れ、自分の罪を告白してへりくだることができるなら、その裁きは救いへの入口となるでしょう。実際、神はユダが悔い改めて帰ってくることを望んでおられたはずです。しかし、実際にはそのようにはなりませんでした。ユダは神の裁きを受けてもなお空しいものにより頼むことをやめません。結局、紀元前897年に起きた第1回目の捕囚のあと約10年して第2回目の捕囚が起こり、そこでユダは完全に滅んでしまうことになります。

 

 それがユダの現実でした。初めに言われていたとおり、クシュ人が肌の色を変えることができず、豹が皮膚の模様を変えることができないように、ユダも罪にとらわれたあり方を変えることができません。エレミヤは、そんなユダを見ながら、最後に「いつまでそれが続くのか」と語ります。神を忘れ、空しいもののあとを追いかけ続けるユダが悔い改めることを神は願っていらっしゃいるのですが、実際にはユダはとてもかたくなで、罪を認めることが出来ません。本当は、誰よりも神ご自身がそのことに心を痛めておられるのだと思います。けれど現実は変わりません。エレミヤもそのことに心を痛めています。「いつまでそれが続くのか」という言葉には疲れや苦しさのようなものを感じます。ですが、同時にこの言葉は、変わらないユダと共にあり続けようとする預言者としての思いの表れでもあるように感じます。決して前向きに、希望を持ってそう言えるわけでないのが実情です。ユダと共にいることは、ここに書かれてある神の裁きが実際に下される中にとどまることを意味します。それを経てもなおユダはかたくななままであり続けるかもしれません。にもかかわらずこの民から離れることができないエレミヤのつらさがこの言葉には表れているように感じます。しかし、それでもやはり彼は預言者として民の中にとどまり、共に歩むことから離れることができません。その務めを果たすことの重さやつらさを感じているのでしょうし、そのつらさはユダ自身が味わう苦しさにつながっているからこそのものでしょう。その意味で言えば、エレミヤは第三者的にユダを眺めているわけでありません。他人事ですますことができるなら楽なのでしょうが、預言者である以上そうはいきません。ここからはそんな厳しさもあわせて感じ取ることができるように思いました。同じような苦しさを、わたしたちも感じていると言えるかもしれません。神に背いていると言わざるを得ない現状を様々に見聞きする中で、なお信仰者であり続けようとすることはある意味厳しいことのように感じます。しかし、それでもわたしたちはここから離れて自分たちだけのユートピアに逃げ込むことはできません。おかれた時代と状況の中で、神のご意志をたずねつつ、救いは主にあることを証しすることが求められているのではないか。そんなことを考えさせられる箇所でもありました。

 

 

 

《今週の祈祷主題》 「聖餐の恵みを覚えて」

 

10月第1主日は世界の多くの教会で世界聖餐日として覚えられています。戦いや争いの絶えないこの世界にあって、教会は人種や教派を超え、主にあって一つであることを覚えながら聖餐式を行う日とされています。様々な違いがありながら、それでも主に結ばれて生きる一つの群れであることを覚えながら聖餐の恵みにあずかりたいと思います。