祈りの部屋
集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。
み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。
現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。
第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から
第2,4水曜 教会で 午後2時から(Zoom併用)
エレミヤ書44:11〜19
今日は44:11〜19節を読みました。11節は「それゆえ」で始まっています。これは、ここで語られることがその前で語られていたことを受けていることを示します。その前までに語られていたことは、過去の歴史を振り返ることとその振り返りに基づいて現在起こっていることをどう理解するのかということでした。エレミヤが過去の歴史について語る中で取り上げるのはイスラエルの度重なる神への背きです。王をはじめとするユダの人々は長い間神以外のものを神としてあがめてきました。イスラエルにおける偶像礼拝の歴史は長いものです。王国時代だけをとっても、さかのぼればソロモンにまで行き着きます。さらには士師の時代もそうですし、荒野を旅する間も自分たちで作った像を拝むことがありました。そのように、イスラエルの民の中で神以外のものをまるで神であるかのように信頼し、拝むことはずっと続いてきたことでした。もちろん神は何もせずそれをほったらかしにしておられたわけではありません。シナイ山にふもとで金の子牛を作った人々の多くはその場で裁きを受けて死にました。士師の時代には人びとの心が神から離れるたびに敵に攻撃させ、苦境に立たせました。そうやって神はご自分の意志を示しながら、何度も悔い改めさせてこられたのです。王国時代になればエリヤやエリシャをはじめとする様々な預言者たちの働きを通して民を戒め、教えてこられました。それにも関わらず、人びとはまことの神だけを礼拝するということに立つことができませんでした。その結果行き着いたところがバビロン捕囚です。それは神がお下しになった裁きの結果であり、神がどれほど呼びかけてもそれに答えてこなかった人びとの罪の結果でした。そのことは、イスラエルの歴史を振り返ってみればよく分かるはずです。エレミヤはそう語りながら、今また改めて神の裁きを語ります。それはユダの残りの人びとがここでも神の呼びかけを無視して逃げていこうとしているからでした。
その裁きの言葉が11〜15節です。神はエジプトへ逃げていこうとする人びとに「必ず滅びが臨む」とお告げになります。エジプトに逃げることは神の命令に背くことだからです。神はユダに留まってバビロンに従えとお命じになります。しかし人びとはバビロンを恐れるあまり留まっていることができず逃げ出します。その不安は理解できます。バビロンに逆らえば生きのびることは難しいということは、エルサレムが破壊された経験から痛いほど分かっていたでしょう。それなのにバビロンのたてた総督だったゲダルヤが暗殺されてしまったのです。それは人々の願いや意志に反することだったはずです。彼らはむしろゲダルヤのもとでバビロンに従いながら再建の道を歩もうと考えていたのではないかと思います。しかしその道が途絶えてしまったとき、彼らはじっとしていることができず、どうしてもバビロンから逃げなければならないと考えてしまいました。エレミヤは逃げないで留まるよう語りましたが、その声は届きませんでした。
神がユダに留まりなさいとお命じになるのは、ユダの滅亡が積み重ねられてきた背きに対する裁きだったからです。それまでいくらでも悔い改めるチャンスはあったけれど、ユダの人びとは結局最後まで神に向き直ろうとしませんでした。そのために神は彼らの進む道を途絶えさせます。彼らが進んできた道、そして進もうとしていた道は的はずれであって間違っていたからです。そのことをちゃんと受け止めて神のもとでもう一度やり直すこと、すなわち悔い改めて神に向き直ることが彼らには求められていたのです。バビロンに従うということは、ユダの滅亡というこの悲惨な出来事を神による裁きとしてきちんと受け止めることを意味しています。自分たちの歩みが罪深いものだったことを認め、神の前にへりくだって立ち帰り、神に従うものとしてもう一度新しく歩み出していく。それがバビロンに従うということの持っている大切な意味だったのです。それなのにバビロンを恐れてエジプトに逃げ出してしまうなら、それは神が用意してくださったこの悔い改めと新しい始まりのときを自分から捨てることになってしまいます。それは結局自分たちが犯してきた過ちとも向き合わず、神にも向き直らず、これまで同様、神とは関係のない道を勝手に進んでいくことなのです。そうすることでたとえバビロンの手にかかって死ぬことがないとしても、彼らは何も変わらず罪と死に支配されたままです。神はそれに対してはっきり否とおっしゃいます。そして改めて悔い改めるよう呼びかけられるのです。
そのような神の呼びかけを受けた人びとの答えが15節以下です。ここを読むと、彼らが全く違うものの見方をしていることが分かります。人びとの内、自分の妻が異教の神々に香をたいていたことを知っている男性やその妻たちなどがこぞってエレミヤに反論します。彼らの見方によれば、異教の神々に献げ物をしていたときこそ暮らしが豊かだったけれど、それをやめたことで生活は苦しくなって結局滅んでしまったというのがバビロン捕囚に至るまでのユダの歴史です。彼らは、我々は昔から父祖たちも歴代の王たちや高官たちも天の女王に香をたいてきたと言います。確かにその通りです。そしてそうやって天の女王を拝んでいるときに裕福な暮らしをしていたというときも確かにありました。たとえば列王記下21章に出て来るマナセ王の時代がそうです。列王記や歴代誌が下す彼の評価は最悪と言ってもいいものです。列王記や歴代誌が記すのは、彼がどれほど熱心に偶像礼拝を行ったかということです。彼は神殿の中に異教の祭壇を築き、アシェラ像も置いて、主の神殿の中で天の万象を拝みました。また自分の子どもに火の中を通らせたり、占いやまじないなども行っています。ですから、神との契約を守ることに関していえば最低と言わざるを得ません。にもかかわらず、その彼が12才で王となってから55年も王でい続けました。列王記を見ても歴代誌を見てもマナセの時代の社会の様子や人びとの暮らしのことは具体的には書かれていません。しかし55年という長い間王でいることができたのは、社会が比較的安定していたからだろうと考えられます。当然、社会の中にも様々な偶像礼拝が入り込んでいたはずです。それこそエレミヤに反論する人びとの言葉どおり、エルサレムの巷でも、王にならって様々なものが神であるかのようにあがめられていたのでしょう。それでも食べる物に満ちたり、豊かで災いを見ることなく過ごしていられたのだと思います。そのマナセの次の次の王となったのがヨシヤ王でした。ヨシヤは神殿で見つかった律法の書に従って偶像を一掃しました。そのため列王記群を抜いて彼を高く評価します。しかし、そのヨシヤはエジプトとの戦いで死んでしまい、それ以降ユダはバビロンの支配に脅かされながら何とか生き延びる以外にありませんでした。そして行き着いたところがバビロン捕囚です。この2人の王の時代を見比べながら、人々はマナセ王の時代のほうが望ましいと主張するのです。他の神々を拝してただイスラエルの神のみをあがめようとした結果何が起こったか考えてみるがいい、何一ついいことはなかったではないかとこの人々は言います。人間はこのようなものの見方をするものだとつくづく思います。わたしたちも例外ではないでしょう。何に価値を見出し、大切にするのかということを見定める基準をわたしたちはどこに置いているのでしょう。わたしたちは案外この人々が言っているのと似た考え方をすることがあるのではないでしょうか。わたしたちは目に見えるものや手で触れるものの価値をどうしても高く見てしまいます。それは確かに大切なことです。その大切さをふまえておかないと信仰はどんどん観念的なものになり、単なる理想に終始してしまいます。しかしその一方で目に見えるものばかりを重んじてしまうと、わたしたちの視野の中から神は消えてしまいますし、隣人も見えなくなって自分の事ばかり考えてしまうようになります。わたしたちはそのどちらかの間違いにはまりやすいものです。このエレミヤに対する人びとの反論を見て、わたしたち自身の弱さを改めて思わされます。その弱さにとらわれてしまってどちらかの過ちに引きずられてしまうことがないよう、み言葉に耳を傾けていなければなりません。そしてその聞き方が独りよがりになってしまわないよう、繰り返し点検を受けていなければならないことを思いました。
《今週の祈祷主題》「大会共助金庫の働きを覚えて」
大会共助金庫は引退教師、逝去教職配偶者への年金及び遺族年金支給と、教会建築等にかかる費用の一部貸付(無利息)を務めとしています。引退教師の増加に伴い年金支給額の減額を余儀なくされてきましたが、長く教会に仕えてくださった教職に対する感謝、そしてみ言葉に仕える者を召して教会に与えてくださった神への感謝を表すために、この働きが教会の業として続けられるようお祈りください。またまもなく行う共助金庫維持会費献金にご協力ください。
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