祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から

 

今週から3回、夏期伝道中の佐々木神学生が担当します。



ネヘミヤ記1:1〜11          佐々木神学生(日本キリスト教会神学校 4年)

遡ること紀元前597年、ユダ王国(南王国)は新バビロニア王ネブカドネザル2世によって支配され、ユダの王エホヤキンやその貴族たちは捕虜としてバビロンへ強制的に移送されました。これが最初の捕囚です。その後、紀元前586年にはユダ王国は完全に滅ぼされ、首都エルサレムやその神殿も破壊されてしまいます。生き残った人々の大半はバビロニア地方へ捕虜として連行され、強制的に移住させられました。これがバビロン捕囚です。
彼らの大部分は、バビロニアのカルデヤの地ケバル川の河畔に移住させられました(エゼ1:3)。それはこの地域が、アッシリア人との戦いで人口が減少していたため、それを補うために移住先として選ばれたと考えられます。また熟練した労働者、すなわち職人などは首都バビロン近郊に移住させられ、主としてネブカドネザル2世が熱心に取り組んでいた建設事業に従事させられたようです。古代のオリエント社会において敗北した国の民が、強制的に移住をさせられることはよくあることで、反乱の防止や労働力の確保のために行われたものです。ユダヤ人のバビロン捕囚も同じような理由で行われました。
バビロニアへの強制的な移住から長い時が流れ、新たな世代へと移り変わって行きます。ユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれ、その地の影響を受けることになります。それは彼らに激しい葛藤を呼び起こし、それまでの民族の歩みや宗教の在り方を徹底的に再考させられることになりました。彼らは自分たちの宗教的な繋がりを思い起こし、神殿宗教だけを拠り所とするのではなく、律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになります。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界を創造した唯一の神である、と理解されるようになります。「祭司記者」などの宗教家たちによって、バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も記述されました。後のローマ帝国以降のディアスポラの中でも失われなかったイスラエル民族のアイデンティティはこうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されました。
その後、紀元前538年にアケメネス朝ペルシアの初代の王キュロス2世は「キュロスの勅命」を出します。それは捕らわれていた者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することを許す布告です。神の選民と言われていた人々は、このバビロン捕囚という試練を経験しますが、これは彼らの不信仰と罪に対する神の厳しい刑罰であり、その服役の時が満ち、再び彼らは許され、祖国に帰還することになります。これは不思議なことに、イスラエルはバビロンを滅ぼしたペルシア王によって救われたのです。その約100年後、祖国イスラエルに神殿が再建され、エルサレムの城壁が修復されることになります。そしてシオンの都としてのエルサレムにイスラエルの共同体が集まり、神殿礼拝を中心とするかつての主の民、イスラエル共同体が再建されることになります。その大事業を成し遂げるために奔走し、活躍したのは、この偉大な指導者たちエズラとネヘミヤです。特に私たちは、プロテスタント教会の伝統が、このイスラエルの再建に遡るものであることを忘れない者でありたいと思います。アブラハム契約やモーセのシナイ契約、そしてダビデ契約も、このイスラエル共同体の再建があってこそ、保持されてきたものであり、私たちの主イエスも、これを母体として生まれてきたのです。
「ネヘミヤ記」は旧約聖書の中で古代ユダヤの歴史を記していますが、もともとは「エズラ記」と「ネヘミヤ記」はユダヤ教では1つの書として扱われてきました。そしてバビロンの帰還による再建の働きを「エズラ記」、そして「ネヘミヤ記」の順番にしていますが、厳密な年代を見ると、むしろ先にネヘミヤが再建に着手し、エズラが内容的な再建を成し遂げたと見るのが正しいようです。
ネヘミヤはペルシアの王アルタシャスタの献酌官です。彼は祭司でも学者でもなかったのですが、とても信頼された側近であり王の相談役のような立場にあったようです。第一回の帰国団が組織され出発しましたが、その数は少なかったようです。何故ならイスラエルの人々が、バビロンに滞在するようになってから、すでに約50年の時が過ぎさったことが原因となっています。その歳月はイスラエルの人々をバビロンに定着させ、捕囚時に中心になっていた人たちは、既に死に絶え、当時20歳の若者が70歳になっていました。従って解放令が出たからと言って、直ちに故郷へ帰ることができる人は限られていました。その一団の中心になって神殿再建の企画をしたのは、捕囚最後のユダの王エホヤキンの子セシバザルであり、またかつてバビロンのネボカドネザルがエルサレムから持ち去った神殿の什器や財宝の一切を持ち帰ることも許されたのでした。しかしエルサレム神殿の工事は困難を要し、完成したのは515年で20年以上もかかってしまいました。その後2回目、3回目と帰国団が到着したのですが、ネヘミヤが帰国した445年までの70年間は記録がなく、この間の消息は全く不明です。一度破壊されたものの回復や再建は困難を要し、至難であったということです。紀元前445年にネヘミヤはこの再建に乗り出しますが、それはアルタクセルクセス王の時代になってからであり、すでに神殿再建から70年、解放令が出て第一次帰国から90年あまりを経ていました。ネヘミヤ一章ではこのことを伝えています。
ハカルヤの子、ネヘミヤの記録。第二十年のキスレウの月、わたしが首都スサにいたときのことである。兄弟の一人ハナニが幾人かの人と連れ立ってユダから来たので、わたしは捕囚を免れて残っているユダの人々について、またエルサレムについて彼らに尋ねた。彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」
これはエルサレムについての報告です。ネヘミヤはこの報告を聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげたとあります。ネヘミヤは、主の御名が謗られていることを泣き悲しむために「座って」、「泣いた」、そして深い悲しみのため「喪に服した」と記されています。そしてここからネヘミヤの祈りが始まります。この祈りはイスラエルに対する懺悔の祈りであり、神の契約によりすがり、そして11節でおお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」と祈ります。