祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。週に1つずつ入れ替えます。

 

※更新が不定期になってしまい申し訳ありません。



 

エレミヤ書315

 

 

 2章ではイスラエルの罪を告発する言葉が語られていました。3章でもまずはそれを継続しながら、悔い改めを呼びかける言葉が語られていきます。今日は5節までで、2章同様、イスラエルの罪について語られます。

 

 

 ここで特にふれられているのは、偶像を拝みながら同時に神も礼拝しているというあり方についてです。初めに、結婚に関する律法の定めを用いながら、神と偶像を同時に拝むあり方について語られます。もし人が妻を出し、その女性が他の人と結婚した後、その相手とも離婚した場合、初めの夫のもとに妻として帰ることができるだろうか、と問われています。これは申命記24章の始めに記されていることに関わっています。申命記では、2度目の結婚も破綻した場合、その女性は1度目の夫のもとに戻ることはできないと定められています。それは1度目の離縁によって彼女はけがされているからだと言われています。離縁によって女性だけが汚されているという考え方は今ではそのまま通用しないものでしょうが、それは最初の夫との関係について言われていることのようです。これについて今はこれ以上深入りはしませんが、その規定が神とイスラエルの間に当てはめられているのがこの1節です。神とイスラエルの関係を結婚にたとえることは、エレミヤ書にはよく出て来ます。最初の夫である主なる神との関係を離れ、別の神のもとへ行きながら、また何もなかったかのように神のもとに帰ってくる。そんなことはあり得ないことだと神は言われます。もちろん、悔い改めて神に立ち帰ることなど未来永劫ゆるされないと言っておられるわけではありません。そうでなければこのあと悔い改めの呼びかけが続くはずがありません。神が言っておられるのは、主なる神とほかの神々とを並べて置き、自分の都合や考え方で自由に拝む相手を選ぼうとするあり方の間違いです。お前は多くの男と淫行にふけったのにわたしに戻ろうというのかと神は言われます。戻るとしてもふさわしい戻り方があります。そんなことは関係なしに、何もなかったかのように戻れるとどうして思うのか、と神は問われるのです。

 

 

 そこには、自分の犯した罪に対する自覚のなさが見て取れます。主なる神から別の神々に乗り換えると言うことについて、何も感じていないのです。そのことは、数多くの神々をあがめることにもつながっています。2節では、イスラエルにおいてどれだけたくさんの偶像礼拝が行われてきたかが指摘されています。目に入る限りの山々で偶像が拝まれてきました。また、荒れ野でアラビア人が座っているように、といわれていますが、これはアラビアの荒れ地にある道を行く旅人を強盗たちが狙っている様子を表しています。強盗が獲物を狙って待ち伏せするかのように、イスラエルは様々な機会をとらえて偶像礼拝を行ってきたと言うことです。それがどんなに頻繁に行われることだったかがこれらの言葉には表れています。神の民と呼ばれ、その自覚を持ち続けていたはずのイスラエルにおいて、まるで当たり前のことであるかのように偶像が礼拝されるというのは、改めて考えてみても驚きです。でもそれくらい偶像はわたしたちの目や心を引きつける魅力を持っているということかもしれません。それに対して、主なる神にのみ従うというあり方を貫くことはとても難しいこと、あるいは厳しいことと言えるでしょう。新しい土地に入って様々な人と出会い、関わりが生まれ、いろんな考え方や感じ方が入り込んでくる中で、何が主なる神への誠実さを失わないあり方なのかを考え、求めていくことは大変なことだと感じます。奴隷だったエジプトから旅立ち、荒野を旅したあと豊かなカナンの土地に入っていったイスラエルにとっても同じだったのかもしれません。でも、そのことがイスラエルのこのあり方を正当化するわけではありません。そう言わざるを得ないのは、彼らに対して神が真実であり続けられたからです。その神に対するとき、彼らのこの姿はふさわしいと言うことは出来ません。そのことに気付くことを神は願いながらこれを語っておられるのだと思います。

 

 

 そんな思いを、神はこれまでも変わらず持ち続けてこられました。3節で、雨が降らなかったのはそのためだと言われています。これは、神が契約に基づき、イスラエルの犯した罪対してお下しになった罰です。それは、神が契約の中で語っておられることをその通りに守られた結果です。でも、イスラエルは自分が何をしたのかに気付きませんでした。お前には遊女の額があり、少しも恥じようとしない、というのは、神がお下しになった裁きを経験しても、それが自分の罪のために起こったこととは認めなかったし、気付くことさえなかったということを表しています。気付くどころか、人々はさも当然のことのように神に助けを求めます。4,5節です。5節には「主はいつまでも憤り、限りなく怒り続けるだろうか」という言葉が記されていますから、雨が降らないことを神の怒りとしては理解していたのかもしれません。けれど、そのことを通して自分自身の罪と向き合うことはできませんでした。雨が降らず、神が怒っておられると感じていても、それはいつまでもは続かないと考え、それまで同様平気で悪を重ね続けながら、その一方で神を拝もうとするのでした。

 

 

 これを読みながら、自分の罪と向き合うことは、わたしたちにとっては本当に難しいことだと言わざるを得ません。わたしたちは、このイスラエル同様、どこかでごまかし、適当なことで済ませてしまいがちです。そのことを考えると、こうして神がわたしたちのありのままの姿をその通り語り示してくださる言葉は大切だと思わされます。それを自分のこととして受け取ることも難しく、わたしたちはすぐに異議を申し立ててしまうのですけれど、しかしそれでは神がここで指摘されるとおり、平気で罪を犯す傲慢さに陥り続けることになってしまうでしょう。神と関係なく生きることがわたしたちにとっては自然なことだからです。そうならないようにと神が語ってくださる言葉を、わたしたちは繰り返し聞いていかないといけないと思わされます。もちろん、その言葉の背後にある神の願いやご意志をちゃんと汲み取りながらです。そうするとき、わたしたちは新しく歩み始めることができるのではないか。いや、そこにしか道はないのではないかと思います。預言者の言葉を聞きながら、わたしたちも神に立ち帰る思いを新たにされていきたいと思います。

 

 

 

 

 

《今週の祈祷主題》「日曜学校研修会を覚えて」

 

今年は4年ぶりに研修会が行われます。コロナ禍が続く中、各教会・伝道所でどのような祈りがささげられ、活動がなされてきたのかを共有しあい、今後について話しあいます。日曜学校を行えていない群れも多い中で、子どもたちをどのように主のもとへ招き、養っていくか、よい話しあいがなされ、これからの働きにつながっていくようお祈りください。