祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から(Zoom併用)

 



エレミヤ書41:4〜18
 ここは総督ゲダルヤが暗殺された後の混乱した様子を記す箇所です。ゲダルヤはバビロンによって総督に任じられ、ユダの統治を命じられました。戦争に敗れて破壊された故郷に残された人々がバビロンを恨んで反乱を起こそうとしたりせず、平穏に暮らしていくよう治めるのが彼の役目だったでしょう。少なくともそれがバビロンの意図だったのだと思います。ゲダルヤはその役目を忠実に果たそうとしました。彼は自分の所に集まってきた人たちに対し、カルデヤ人に仕えることを恐れずバビロンの王に仕えなさい、と語りかけます。人々の中には当然いろんな思いがあったでしょう。廃墟と化したエルサレムを見て呆然とするばかりの人もいたでしょうが、バビロンに対して怒りを覚える人もいたはずです。そのような様々な人たちをまとめてバビロンの支配下で生きていけるようにすることは大変だったかもしれません。しかしゲダルヤにはその役目を果たすために力を尽くすつもりだったように感じます。それは、バビロンに従う方が有利だという計算をしたからではないでしょうし、心底バビロンの王に傾倒していたわけでもないでしょう。彼がバビロンに従うよう説いたのは、エレミヤの言葉があったからだと思います。先週もお話ししたように、彼の父であるアヒカムは窮地に陥ったエレミヤの命を守るために彼をかくまったことがあります。その息子であるゲダルヤがエレミヤの預言どおりのことを人々に説くのは、エレミヤに対する信頼があるからと考えられます。だとすれば、総督に任じられ、ユダに残された人々の命運を任されたということの中に神のご意志や召しを見出していたということも十分あり得るでしょう。どれほどその自覚があるかは定かではありませんが、彼は彼なりに神のご意志を受け止め、託された務めを果たそうとしていたのではないでしょうか。そうすることができたのは、エレミヤが語ってきた言葉を知っていたからであり、その言葉から今も神が働いておられると信じていたからではなかったでしょうか。
 エレミヤの言葉通りにエルサレムは破壊され、多くの人がバビロンに連れて行かれました。残った人々がこれからを歩んでいくために頼りにすべきものは、神がエレミヤを通して語り続けてくださった言葉の中にあると彼は思っていたのではないだろうかと思います。状況とすれば前途は暗いと言う他はありません。都は破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。ダビデにつながる王もいなくなってしまいました。神がそこをご自分の住まいとするとおっしゃったエルサレムの神殿と、神がダビデに与えてくださった「いつまでもあなたの後を継ぐ者が絶えることはない」という約束を受け継ぐ王の存在は、イスラエルの人々にとってよりどころでした。「これさえあれば絶対にだいじょうぶだ」と言うことができた最も大切な支えだったのです。それが失われてしまいました。その後に残った廃墟を目の当たりにした人たちはまさに絶望を味わっただろうと思います。しかし、その絶望の中になお残されているものがあることをゲダルヤは示しました。彼らにとってはすべてが完全に失われてしまったと言う他ないこの状況は他でもない神ご自身がもたらされたものであって、神はこの出来事の外に立って何もできずに眺めておられたわけではありません。むしろこの出来事のまん中にいて、すべてのことを治めておられました。エレミヤが語り続けてきた裁きの言葉がそのことを教えます。そうであるならば、この絶望的な状況の中にも神はおられるはずです。だから彼は、神のご意志はバビロンの支配に従ってバビロンの王に仕えることにあるとはっきり語ることができました。そんな彼のもとで人々は新たに歩み始めたのでした。
 しかし、それを快く思わない人もいました。アンモンの王バアリスやネタンヤの子イシュマエルたちです。イシュマエルは、バアリスと協調しながらと思いますが、ゲダルヤのもとで始まった再建の歩みをストップさせるためにゲダルヤを暗殺しました。彼には彼なりの言い分があったのかもしれません。しかしたとえ彼がどんなことを考えていたとしても、ゲダルヤを暗殺したことは暴挙でしかなかったということを今日読んだ箇所が示しています。
 イシュマエルがゲダルヤを暗殺した後すぐ、シケムとシロとサマリヤから80人の人がエルサレムに向かおうとしてミツパにやって来ました。彼らはひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿をしていて、主の神殿にささげる供え物を携えていました。この格好は彼らが巡礼者であることを表しています。すでにエルサレムは破壊され、神殿もなくなっています。それなのにエルサレムに巡礼者としていこうとしているのは不思議です。ただ、彼らの格好は喪に服するものの格好で悲しみを表現しています。ですから、ひょっとすると彼らはエルサレムが破壊されたことを悲しみ、神殿の跡地で犠牲を献げるつもりだったのかもしれません。そんな人々が近づいて来たとき、イシュマエルは同じように泣きながら彼らに近づき、ゲダルヤの所へおいでくださいと言ってミツパの町に誘い込みます。そして80人のうち70人を殺して穴に投げ込んでしまいます。なぜそんなことをしなければならないのか理由が分かりません。そのためある人は、イシュマエルがゲダルヤを暗殺したことには一片の正義もなく、正当な理由などまったくないことを象徴する行為ではないかといっていました。少なくとも、イシュマエルのしていることに正当性がないということは、80人のうち10人を生かしておいたことにも表れていると言えます。その10人は小麦や大麦など貴重なものを隠してあるからと訴えたことで命を奪われずにすんでいます。イシュマエルがそれを聞いてどうするつもりだったのかは記されていませんが、10人の隠しておいた貴重なものに心が動いたのは間違いないでしょう。そのことは、イシュマエルの行動に何も正しい理由がないことを象徴していると言えるのではないでしょうか。
 そしてそのことはすぐ明らかになります。ヨハナンをはじめとする軍の長たちが兵を率いてイシュマエルの後を追います。イシュマエルは人質を連れてアンモンに逃げて行こうとしていましたが、ギブオンの大池のほとりで追いつかれます。後ろの地図を見ていただくと分かるのですが、「4 統一王国時代」の地図にミツパとギブオンがでています。どちらもエルサレムから見てすぐ北にあります。そしてミツパとギブオンはすぐ近くです。こうしてみると、イシュマエルはほとんど逃げることができていないことが分かります。イシュマエルがどんなことをたくらんでいたのか正確には分かりませんが、彼は何も成し遂げることができないまま部下たちとアンモンに逃げていく以外にありませんでした。
 こうしてゲダルヤのもとで始まった再建への道は潰えてしまいました。あとに残った人々はミツパから南に下ってベツレヘムあたりに向かいます。そこからさらに南下してエジプトに逃げていくことを考えていたのでした。その人々の中にエレミヤもいたと思われます。エレミヤがそのときどうしたのかは次に読みますが、彼の言葉を見ると、神はこの時点でもまだ人々に歩むべき道を残していてくださったことが分かります。エルサレムが破壊されたことも、ゲダルヤが暗殺されたことも、人々にとっては絶望的な状況をもたらす出来事だったでしょう。一度破滅を味わいながらもどうにか立ち上がって歩み出したにもかかわらず、それがまた挫折させられてしまったのです。人々は完全に希望の芽がつまれてしまったと感じていたかもしれません。ですが、バビロン捕囚がそうだったように、耳を澄ませば聞こえてくる神の言葉が残されていました。神はこのときもやはり彼らの神として共にいてくださったし、共に歩むための道を備えていてくださいました。神はまさに無から有を呼び出すお方なのです。そんな神の力の働きは本当に見えにくかったかもしれません。しかし、神がおられるかぎり望みが絶えることはありません。人の愚かさはその神の働きを覆い隠して闇に包み込んでしまうかもしれないけれど、それでも神から力が失われることはないし、神の働きがやむことはありません。そのことちゃんと目を向けていることができる信仰者でありたいと思いました。

《今週の祈祷主題》「日曜学校の働きのために」
現在、日曜学校の礼拝には5名の子どもたちがつながっています。高校生の一人を除いては客員や未信者の家庭の子どもたちです。それでも遠くから自分で通う子どもたちが守られるように、そして一人一人が主に結ばれながら成長していけるよう、教師たちは祈りつつ取り組んでいます。その働きのために、そして子どもたち一人一人のためにお祈りください。