祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。週に1つずつ入れ替えます。

 

※更新が不定期になってしまい申し訳ありません。



 

エレミヤ書52031

 

 エルサレムの堕落について語る部分の最後です。

 

 この部分ではまず、語りかけるべき相手としてヤコブの家とユダが指定されています。ヤコブの家という表現は北イスラエルを指しますから、ここではエルサレムという特定の町というよりは全イスラエルに向けての言葉が語られているということになります。ただ、ここで語るべき対象が変化していることに特別な意味はないように思われます。実際、語られている内容は北と南の区別は関係なく、どちらについても当てはまることです。神は北イスラエルも、南ユダも、どちらのこともご自分の民として覚えておられることの表れとして見ておいてよいだろうと思います。

 

 その最初で、神は「愚かで、心ない民よ、これを聞け」と呼びかけておられます。心がないというのは、けっこうきつい表現です。ただ、それは気持ちとか感情といった部分が抜け落ちていて、機械のように冷たい人々だということではないようです。他の日本語聖書を見ると、ここは思慮がないとか悟りがないと訳されています。これが実際何を表しているかということは、その次に語られている「目があっても見えず、耳があっても聞こえない民」であるということに表現されています。目があるということは、なにがしかは見えてはいるわけです。同じように、耳があるのですから、必ず何かは聞いているわけです。にもかかわらず、見えていないし、聞こえていないと言われるのは、自分が見ていることや聞いていることを正しく理解できず、自分にとってどんな意味を持つものかが分からないし、受けとめられないということがあるからです。それが愚かとか、心がないと言われていることの中身です。そういわれる前提としてあるのは、彼らが受けとめるべきことが何であるかは間違いなく示されているということです。実際、律法は神の民としてのあり方とはどういうものなのかを表しています。また、神によってその時々に派遣された預言者たちは、与えられている律法をどう読み、どのように振る舞うべきかを語ってきました。しかし、いくら律法を読み、預言者が語り聞かせても、人々は神を畏れ敬おうとはしませんでした。神を畏れるということは、要するに、神の言葉に聞き従うことです。聞き従うということによって、民は神への信頼と畏れを表します。しかし、北の国でも南でも、人々はかたくなに神に従うことを拒み続けました。見えているし、聞こえているはずなのに、それには何も答えようとしない。そんな愚かさや頑なさが心ない民という表現になっています。

 

 その次に神が語られたのは、砂浜を海の境とし、それを永遠の定めとなさったことです。唐突に感じられるかもしれませんが、神を畏れ敬おうとしない民に対して、神はご自分がいかなるお方であるかを示そうとしてこれを語られたのでしょう。民は神を畏れようともしないけれど、しかし神は砂浜を海の境となさったお方で、神が定められたこの秩序はどんなことがあっても変わることがありません。これは創世記の初めにある天地創造の記述にあることです。何度もお話ししたように、天地創造は様々なものを分けることで進んでいきます。その中で第3の日に、神は天の下の水を集めて海を造り、それによって陸地を造られました。そこでもうけられた海と陸地の境界線は、命あるものたちが生きていくために必要な大地を守るために神が定められたものというのが創造物語の理解です。そのことにおいて、神がどれほど大きな力をもつお方であるか、また命を守り、維持するためにどんなに配慮してくださるお方であるかが示されます。そのようなお方を侮り、見るべきことを見ず、聞き取ることを何も聞こうとしない民は、なんと愚かなことだろうか、と神はおっしゃるのです。

 

 その愚かさのために味わった苦難を背景として語られているのが2425節です。おそらく、季節ごとに降るはずの雨が降らず、飢饉が起こったのだと思われます。14章に干ばつの災いと見出しのついた部分がありますが、その出来事が背景となっているのではないかと説明する人もありました。しかし、干ばつに苦しんでいるにもかかわらず、人々は、神を畏れ敬おうとはしませんでした。神が海に境界を定めたお方であるということは、この世界を治めるお方であり、ご自分の造られた命を守るためにその力を働かせてくださるお方であるということを表しています。その神を信頼し、畏れ敬うのであれば、助けを求めて神に祈るでしょう。しかし、人々はそうはしなかったのです。干ばつも、神が人々に対して送られたメッセージの1つです。なぜこんなことになるのかをよく考えて自分自身を振り返るなら、見るべきことや聞くべきことが何であったかに思い至るに違いありません。しかし、人々にはそんな思いが少しも浮かんできません。これがあなたがたの現実の姿だといって、神はありのままを突きつけておられます。

 

 そして最後の26節以下の部分は、神から現実を突きつけられながら、それでも聞くべきことを聞かず、見るべきことを見ない民の有様を描いていると考えられます。民の中に逆らうものがいて、罠を仕掛けて人をとらえると言われています。これは、人を欺いて金もうけし、財産を積み上げる人々の様子を表しています。神を畏れない人間の業というのは、このように、人を欺き、自分が富み栄えることを目指すものです。彼らにとっては自分が豊かになることがあらゆることの目的ですから、貧しい人や弱い立場の人たちのことなど顧みたりはしません。弱い人たちを顧みることは、いって見れば、自分が損することを引き受けることだからです。どれだけのものをつぎ込めば、どれだけのものが返ってくるかという計算でしか、彼らは動きません。そこに愛はありません。神の戒めは2つの愛を中心とすると主イエスは言われました。神への愛と隣人への愛です。しかし、この人々にはどちらの愛も欠けています。神を畏れ敬うことを知らないために、隣人を愛することも知らないままになっているのです。

 

 これらのことをわたしが罰せずにいられようかと神はおっしゃいます。ご自分の民でありながら、神を畏れることを知らず、それゆえ隣人を隣人として覚えることもできないこの民のあり方を、神はいつまでもそのままにはしておかれません。エレミヤはそのことを告げ、人々に神への畏れを思い起こさせようとします。しかし、それはとても難しいことでした。なぜなら、民の指導者であるべき預言者たちや祭司たち自身が、同じ過ちに陥っているからです。預言者は偽りの預言をしていると言われます。おそらくそれは、人々におもねって、皆が聞きたいことを語って安心させることしかしなくなっているということでしょう。また、祭司たちは富をかき集めていると言われます。それは、律法に忠実に沿った判断や指示を与えることをせず、より多くの報酬を得るために、人々が喜ぶようなことばかりをしているということです。そうですから、彼らに導かれる民も喜んでいることができるわけです。でも、それがいったいどういうところに行き着くことになるか、よく考えてみなさいと神は警告なさいます。民も、また民の指導者も目先の富を増やすことばかりに関心があり、目があるのに見るべきことが見えず、耳があるのに聞くべきことを聞き取れない愚かさに捕らわれていました。そんな民の姿を、心を痛めながら見ておられる神の思いがここにも表れているように感じます。

 

 主イエスも繰り返し、耳のある者は聞きなさい、とおっしゃいました。わたしたちも、改めて心して、聞くべきことを聞き取ることができるよう、み言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 

 

 

《今週の祈祷主題》「ジュニア青年部春のつどいのために」

 

従来、学校の春休み期間中に中高生世代の修養会が行われていました。それを夏に変更するにあたり、春にも対面の集会が企画されました。中高生世代の人たちにとって同世代の仲間との繋がりはとても大切なものです。中会の中でよい繋がりが生まれ、お互いに離れていても、それぞれが教会の交わりの中で主に向かって成長していくことができるよう覚えてお祈り下さい。