祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。週に1つずつ入れ替えます。



 

イザヤ書59章(1

 

 預言者は、主の手が短くて救いえないのではない、と語ります。この言葉の背後には民が抱えていた痛みや訴えがあることが推測できます。乗り越えなければならない困難に苦しみながら、人々は神に助けを求めていたのでしょう。この預言者が働いたのは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰って来てからと言われます。帰ったはいいけれど、そこは決して楽園ではありませんでした。廃墟となったかつての都があるだけです。その町を再建しながら、ここで生きる共同体を作りなおしていかなければなりません。それはわたしたちが想像する以上に大変な仕事だったに違いありません。ハガイ書を見ても、神殿は廃墟のまま、自分の生活を営むことに懸命になっている人々の様子がうかがえます。きっと、日々の生活を滞りなく営むことだけでも大変だったのではないでしょうか。そんな状況を考えると、人々が苦しくて神に助けを求めずにいられなかった気持ちは理解できます。しかし、人々が願ったようには助けが与えられなかったのでした。

 

 その状況は、人々に疑いや迷い、いらだちをもたらしたでしょう。祈っているのに、その祈りが聞かれない。どんな答えも返ってこない。そんなとき、わたしたちも思わずつぶやき、不満を口にします。なぜ神は何もしてくださらないのだろう。なぜこの苦しみをそのままにしておかれるのだろう。そんな思いが心をよぎります。そしていっそう神に祈ります。しかし、それでもわたしたちの願ったとおりにことは起こらないことがしばしばです。そのために、「なぜ」という思いはいっそう強くなって疑いや怒りを生むのです。イスラエルの民もそのような思いを抱いていたのではないでしょうか。

 

 そんな人々に向かって預言者は語ります。主の手が短くて救いえないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。これは、神の側に問題があるわけではないということを示しています。神はいつでも救いを必要とするところにその手を伸ばすことがおできになりますし、人々が苦しい中で祈る声を聞き取れないわけでもありません。人々の様子をちゃんとお知りになった上で、それでも何もしないと決めていらっしゃるのです。それこそ、なぜそんなことをなさるのかと言いたくなります。けれど、神がそうなさるのは、人々の側で神を拒んでいるからだと預言者は語ります。34節を見ると、人々の間で何らかの不正が行われていたことがうかがえます。苦しいときに神に祈るのは、神を信じているからです。でも、神を信じていながら隣人を愛さないということはあり得ません。神を畏れることは、隣人を自分のように愛することに結びついています。そのどちらかを書いても、神に正しく向かっている信仰とは言えません。だから、神は預言者を通して、もう一度帰ってくるよう呼びかけていらっしゃるのです。

 

 

 

«今週の祈祷主題» 「教会創立記念日を覚えて」

 

518日は教会創立記念日です。1930年のこの日、新しい教会の建設を願ってこの地で伝道教会建設式が行われました。その初穂となった16人からこの教会の歩みは始まっています。今に至るまで変わらず神に導かれてきたことを覚えて感謝すると共に、その歴史につながりながら、さらに新しい歴史を紡いでいくことを願って祈りましょう。

 


 

イザヤ書58章(2)

 6節以下で前半で焦点となっていた断食が取り上げられ、神がお喜びになる断食とは何かが語られます。それは、苦しむ人々をその苦しみから解放することだと6,7節で述べられています。しかし、表面的には違うことを言っているようにも聞こえます。ですが、神は断食の手順や作法を問題にしているのではなく、断食をする者としてのあり方を取り上げていらっしゃいます。断食をするとは、神の前にへりくだり、自分の罪を悔いることでしょう。ですが、それは単なるパフォーマンスではなく、神から離れた生き方を改め、神に従う者として歩み始めるために行うものです。ですから、断食という儀式を済ませればあとは自由に好きなことができるというわけにはいきません。神の戒めに聞きながら、神と共に生きることを始めていかなければならないのです。ならば、隣人が虐げられている傍らで、知らん顔をして生活することはふさわしくありません。戒めが繰り返し教えるとおり、また預言者たちが何度も語っているとおり、神は、弱い立場におかれ、しばしば虐げの対象とされる人たちを保護し、助けることをお求めになります。そのご意志に従って、くびきにつながれ虐げられている隣人を助けることが悔い改めたものにふさわしいことだとおっしゃるのです。

 悔い改めることが心の有り様を変える出来事であることはいうまでもありません。しかし、それが心の中のこと、それもその人個人の平安や安楽さにだけとどまってしまうこともあり得ます。わたしたちはしばしばそのように、自分ひとりの喜びに満ち足りてしまうことがあるのではないでしょうか。神は人を孤独にはお造りになりませんでした。人が一人でいるのはふさわしくないとおっしゃって、共に生きるべきパートナーを与えてくださいました。共に生きる誰かのことを思い、祈り、共に歩むために出来ることがないか求めながら生きていく。それが神の前に立つものとしてふさわしいあり方です。そのことと悔い改めとが断ち切られてしまうなら、神はその悔い改めをお喜びにならないのです。

  また最後の部分では安息日のことが取り上げられています。苦しめられている人のことを思いながら生きることが「隣人を愛すること」であるなら、安息日を聖なるものとして守ることは「神を愛すること」です。安息日の決まりを守っていたとしても、神に心を向けることなく、自分のしたいことだけを考えているなら「神を愛している」とは言えません。隣人を愛するためには神を愛することが伴っていなければなりません。そうでなければ、わたしたちの愛はすぐに自分本位なものに変わっていってしまうからです。また神を愛することには隣人を愛することが続いていかなければなりません。神を愛することは単なる気持ちの問題では終わりません。わたしたちが互いを愛し、共に生きるものとなることの中に、神を愛している者であることが表れるのです。そのように、神を愛することと隣人を愛することとが確かに結びつくとき、わたしたちは神の光の中を歩むことができるようになるでしょう。完全なことが出来るとか間違いを犯さなくなるというのではありません。それでも神に喜んでいただけるものでありたいと願うことをあきらめず、繰り返し神に立ち帰りながら生き直すこと、そこに真のへりくだりがあるのではないでしょうか。

 

«今週の祈祷課題»「新型コロナウイルス感染終息のために」

感染者数は減少傾向が続き、以前の日常が戻りつつあるように感じます。これがさらに続いて終息に至るよう祈りつつ、もう少し注意しながら過ごしましょう。

 


イザヤ書581141

 

 神は預言者に「喉をからして叫べ」と命じています。他には「大いに呼ばわって声を惜しむな」とか「せいいっぱい大声で叫べ」などとも訳されていますが、よほど大きな声で、力の限りに叫ぶことが求められているのが分かります。それほど力を込めて叫ぶよう命じられることはそれほどないように感じます。これから語られるのはよほど大事なことだということなのでしょう。では何が語られるのでしょう。それは「わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ」ということでした。この預言者が働いたのはバビロン捕囚から解放されたあとの時期と考えられています。捕囚からの解放は民にとっては大きな喜びだったはずです。人々は喜び勇んでエルサレムに帰ったのではないかと想像します。しかし、実際に帰った人はそれほど多くはなかったようですし、帰った人たちが目にしたのは廃墟となった町でした。それをもう一度再建するのは簡単ではありません。その大変さに力を失う人もいたでしょう。とはいえ、全く神を忘れてしまったわけではありません。3節前半は民の言葉の引用です。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか」人々は神の前に悔い改めて罪を言い表す断食や苦行を行っていました。そうすることで神に助けを求めたのです。しかし、そのことに対する神からの答えが返ってこない。そのことに人々は失望していたのではないでしょうか。それに対する神の答えが「わたしの民に背きを、ヤコブの家に罪を告げよ」ということだったのでした。

 

 確かに人々は断食をし、神の前にへりくだって助けを求めていたのかもしれません。しかし、それはわたしが求める断食ではないと神は言われます。なぜなら、断食の日に彼らは自分のしたいことをし、彼らのために労する人々を追い使っていたからです。神の前ではへりくだる姿勢を見せていながら、生活の中では好きなように振る舞っている。それで本当に悔い改めていると言えるのかと神は問われます。悔い改めるということはその人のあり方の向きが入れ替わることです。何を大切にし、求めて生きるのかという根本的な価値観が変えられることです。人々は心からへりくだって助けを求めていたつもりかもしれません。けれど、そのへりくだりは神をまことに神としてあがめることからはほど遠いと神はおっしゃいます。神はわたしたちの心の一部にでも住まわせてもらえば十分とはおっしゃいません。神はわたしたちとうまい付き合いがしたいわけではないのです。神を神としてあがめることをしなければ、人は高ぶり、自らを損なってしまうことを神は知っておられます。現にわたしたちはそんな高ぶりに陥り、様々なものを、そして自らを傷つけてしまっているのではないでしょうか。そんなわたしたちが神のもとに立ち帰ることを神は求められます。わたしたちが救われることを願ってくださるのです。そのために、人々の断食がまことに神に立ち帰る機会となることを神はお求めになります。その思いが真剣だからこそ、預言者に、喉をからして、声の限りに叫ぶようにおっしゃったのではないでしょうか。

 

«今週の祈祷課題»「日曜学校の働きのために」

 5月第1主日は日曜学校日です。教会は神の家族とも言われます。子どもたちも大切な一員です。主にあって1つの交わりにつながれる一人一人の子どもたちが神の恵みのうちに守られながら成長していくことが出来るよう、みなで覚えて祈りましょう。

 


 イザヤ書5695713(3)

 57313は、偶像礼拝をする人々に向けての言葉です。偶像を拝む人々は、イスラエルの歴史上、ずっと存在しました。モーセに率いられてエジプトを脱出したあと、シナイ山でモーセが神に呼ばれて山に登っている間、ふもとにいる人々は金の子牛を作ってそれを神としてあがめました。カナンに入ってからは、カナンにもともとあった様々な偶像礼拝に繰り返しなじんでいきました。イスラエルの歴史の中では絶えることなく偶像礼拝との戦いが行われてきたのです。同じことがバビロン捕囚を経てもなお続いていたことがここから分かります。偶像を拝む熱心さは「遠く使いを送り、陰府にまで降って行かせた。お前は長い道のりに疲れても/もうだめだとは言わず/手の力を回復し、弱ることはなかった」(910節)と言われるほどです。なぜそこまでして偶像を求めるのでしょう。歴史を振り返れば主なる神こそが民の導き手であり守り手であることは一目瞭然のはずなのに、どうして主なる神以外に拝むものを持ちたいと思うのでしょう。

 

 預言者は「誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか」と問うています(11)。偶像を拝む人々は何かを恐れていたのでしょうか。ここに記されていることを読むと、彼らは何かを恐れているというよりは楽しんでいたように感じられます(48)。そこで言及されていることは偶像を拝むことに伴う様々な儀式が背景になっていると思われますが、特に「姦淫、淫行」と呼ばれるような性的な行為が伴うものや、子どもを犠牲として献げるような残酷なものもありました。そんなことまでしなければならないと考えるほどに恐れを抱く相手があったのでしょうか。もしあるとしたら、主なる神のおっしゃることだけを聞いていて果たしてだいじょうぶなのだろうかという不安かもしれません。荒野にいるなら荒れ野の神を、カナンにいるならカナンの神を拝んでおくほうがよいのではないか。そんなことを考える人もいただろうと思います。「郷に入っては郷に従え」です。とりわけ様々な試練に見舞われて苦しんでいるときはなおさら主なる神への信仰にとどまることに不安を感じたはずです。この苦しみから抜け出せるならどんなものでも拝みたいと考えることは、案外自然な気持ちだと感じられます。けれど、それで本当に救われるのかと預言者は問いかけます。救いとは何でしょう。問題が解決し、辛いことやいやなことが消えてなくなることでしょうか。確かにそれはうれしいことです。けれど、それだけが救いなのだとしたら、そしてそれをもたらすのが神だとしたら、神はわたしたちにとって便利な存在ではあっても、共に生きる相手ではなくなります。もはや神でさえないでしょう。そうなるとき、結局わたしたちは己が腹を神として生きることになるのではないでしょうか。その先に本当に救いがあるのかどうか、よくよく考えなければならないと言われているように思います。

 

《祈りの課題》「イースターの恵みを覚えて」

 主の復活はわたしたちに永遠の命の望みを与え、神が最後には必ず勝利なさることを教えます。深い闇に覆われたこのときも、主こそ道であり真理であり命であることを覚えて歩めますように。