祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から



 

エレミヤ書251529

 

 今日読んだのは2515以下ですが、新共同訳によればここは「神の僕ネブカドレツァル」という見出しの部分に入っています。この前に読んだ箇所では、確かにネブカドレツァルが神に用いられる器として言及されていて、9節では神が彼のことを「わたしの僕」と呼んでおられます。もちろんネブカドレツァル自身にその自覚があったわけではありません。彼は自分の考えに従ってエジプトと戦い、パレスチナの支配権を獲得しただけです。しかし神はそのネブカドレツァルの行ったことを通してユダの罪に対する裁きを行うのだとおっしゃいます。ネブカドレツァルから見れば勝手な言い草かもしれません。このような主張は、本来、戦いに勝った側だからこそ言えることのように思えるからです。ネブカドレツァルからすれば、それは完全な負け惜しみでしかないでしょう。ですが、聖書の神は世界を造り、治めるお方です。イスラエルだけに限った神ではありません。そのことを誰よりも理解し、信じていなければならなかったのがイスラエル自身でした。他の人々がそれをどう思うかは様々でしょう。しかし、人がどうであれ、神の民であるイスラエルは自分たちの神となってくださったお方がまことに神であられることを知っていなければなりませんでしたし、信じていなければなりませんでした。そうでなければ、彼らは到底神の民として歩み続けることは出来ないからです。バビロン捕囚は、イスラエルにとってかつてなかったほど大きな危機でした。何しろ国自体が滅んでなくなってしまうのです。それまで大事な拠り所だったエルサレムの神殿も、王もなくしてしまい、よって立つべき拠り所が一切失われてしまった状態です。それでもなお彼らが1つの民であり続けることができるとしたら、それはもはや彼ら自身が持っている何かによってではあり得ません。彼らをご自分の民として選んでくださったお方がまことに神であられ、そのお方がなおイスラエルをご自分の民として覚えてくださることだけが彼らを神によって歩む1つの民とし続けます。ネブカドレツァルが神の僕と呼ばれ、ユダの罪を裁く器として神に用いられたと言われるのは、彼らの神であるお方はまことに神であられるのだと信じていることの表れと言えるように思います。そして事実彼らの神はまことに神でいらっしゃいます。それゆえ交わした契約を決して忘れることなく、約束どおり彼らの神としてその力を表されるのです。ここで語られていることは、たとえユダが滅ぼされたとしてもそのことは決して変わらないことを指し示していると言えるように思います。

 

 今日の箇所ではそのバビロンに対する神の怒りと裁きが告げられています。それは、この前の部分の最後でバビロンについて述べられたことと一致しています。神はバビロンをご自身の器として用いてユダの罪を裁かれます。しかしそれにもかかわらず、そのバビロンもまた彼ら自身の行いゆえに罰せられます。彼らが罰せられる理由は、12節によれば彼ら自身の罪にあります。また14節では「彼らの行いと手の業に応じて」報いるのだと言われます。そこで具体的に考えられているのは、彼らがユダに対して行ったことです。つまり、エルサレムを破壊し、ユダの民を苛酷に扱ったことです。それはユダに対する裁きとして神ご自身が招き寄せたことだと言われていたはずですから、そのために罰するというのはおかしなことに感じられます。ですが、神に用いられる器であるから何をしても許されるというわけではありません。用いられているからこそ、本当は謙遜さやへりくだりがなければなりません。そうでなければ、器に過ぎないにもかかわらず、まるで自分が神となったかのようにどんなことでもしてしまうような思い上がりに陥ってしまいます。もちろん、それは神を信じているものにこそ当てはまることであって、イスラエルの神を信じているはずもないバビロンに求めても仕方がないと言えるかもしれません。しかし、先にも述べたとおり、神はまことに神であられます。たとえこのお方を神として認識していないとしても、神のご支配の外に立っているわけではないのです。だから、バビロンのしたことは確かに神によって用いられるけれど、しかしそれでバビロンのしたことが何もかもよしとされるわけではありません。バビロンはバビロンとしてやはり神の前に立たされることになるのです。

 

 そしてそのことにおいて指し示されていることは、神にとってイスラエルはやはり宝の民であるということです。神はイスラエルの罪も厳しく裁かれます。それは今日読んだ中でも示されています。17節以降に神の裁きの対象とされる諸国民、諸民族があげられています。その一番初めに出て来るのはユダです。神の民がまっ先に裁きの対象として言及されているのは、ペトロの手紙一417で「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と言われていることを思い起こさせます。神に愛されている民であるからといって裁きを免れるわけではありません。むしろ他に先駆けてその罪が裁かれます。なぜなら、彼らこそは神を知っていなければならないはずの人々だからです。彼らは神を知らないで戒めに反することを行っているわけでなく、知っていながら神に従わないことを選んだのです。これまで読んだ中でもそのように語られているところがありました。その罪は他の誰よりも重いと言わざるを得ません。しかし、それにもかかわらず、神のご自分の民に対する愛は変わりません。それはイスラエルだけをえこひいきしているというのとは違います。そうではなく、神は彼らと結んだ契約を決してお忘れにはならず、最後まで誠実に守り通してくださるということです。そしてその契約はただイスラエルのためだけにあるのでなく、ご自分がお造りになったすべての者をみ心にかなうよいものにしたいと願って働いてくださる神のご意志の表れです。ここで語られている様々な国に対する裁きの言葉の中にそのことが感じられるように思います。

 

 17節以下に様々な国や民族があげられています。それらを少し説明しておきます。初めはユダで、次がエジプトです。エジプトもパレスチナを支配しようとしてしばしば手を伸ばしました。20節に「入り交じった民のすべて」とありますが、これはエジプトに寄留する様々な出身の人々ということだろうと思います。またウツの地というのは、ユダから見ると東の方の地域を指すようですが、詳しいことは分かりません。聖書では、ヨブの住む地とされていることや、エドムの別称として言及されることがあります。次に出て来るのはペリシテで、アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドドというのはペリシテの主要な町です。ペリシテもイスラエルにとっては長年の抗争相手です。次の21節に出て来るエドム、モアブ、アンモンはイスラエルの東から南東にかけてあった国々で、これらもイスラエルの敵としてしばしば出て来ます。22節のティルスとシドンもよく出て来ます。地中海沿岸にあった都市国家で、船を使った交易によって栄えた町です。海の向こうの島々とはその交易の相手となった地を指しています。次の2324節で言及されているのは荒れ野に住むアラビア人たちのことです。「もみあげの毛を切っている人」というのは彼らの特長を指しています。よく分からないものもありますが、デダンとテマはケダルに隣接しているところのようです。次の25節は今でいうイランやイラクあたりの地名です。ジムリというのはよく分かりませんが、エラム、メディアは地図にのっています。そして最後にバビロンです。

 

 このように、イスラエルとかかわるあらゆる国や民族がここで裁きの対象としてあげられています。ユダはバビロンによって滅ぼされます。それは神がユダの罪を裁くために行われることです。しかし、神のみ業はそこからさらに先に続けられていきます。ユダが滅ぼされることで完結してしまうわけではありません。神が目指しておられるのはもっと先です。すべてが完成する終わりの目標を目指して神は働き続けられるのです。ここに記されていることはそのことを示していると言うことも出来るでしょう。その神の御業はこの世界のすべてに及ぶことをこれは指し示しています。その大きさ、広さ、深さをわたしたちは忘れてしまいがちですけれど、わたしたちの神となってくださったお方はまことに神であられることを確かに覚えながら歩んでいきたいと願います。

 

 《今週の祈祷主題》 「伝道と教会の成長のために」

 

弟子たちに降った聖霊は彼らを主の証人として立ち上がらせ、地の果てまで福音を持ち運ぶものとなさいました。聖霊なる神は今もその働きを続けていらっしゃいます。教会はその働きの中でみ言葉を語り、主のからだである教会を形づくっていきます。み霊の働きのもとで、教会に託された伝道と教会形成の業にこれからも取り組み続けていくことが出来るよう祈りましょう。