祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から(Zoom併用)

 



エレミヤ書38:14〜28
 今日読んだ箇所はエレミヤとゼデキヤ王の最後の会談の場面を記しています。次の39章にはエルサレムの陥落という見出しがつけられているとおり、第2回目のバビロン捕囚が記されることになります。その最終的な破滅が訪れる前に、ゼデキヤはもう一度エレミヤと会って彼の言葉を聞こうとしました。それがいつのころなのかは正確には分かりません。39章の始めを見ると、バビロンによるエルサレムの包囲がゼデキヤの第9年10月で町の一角が破られるのは第11年の4月9日と記されています。最後の会談はその期間の最後に近い何ヶ月かの間に行われたのは間違いないでしょう。そのときゼデキヤが何を期待してエレミヤと会おうとしたのかは分かりません。彼はエレミヤに、何も隠さず率直に話してくれ、と言っています。その言葉には、最後が近いという覚悟のようなものも感じられますし、ある注解者は、ひょっとしたらこれまでとは違う言葉が聞けるのではと期待していたのではないかとも言っています。この期に及んでまだ自分にとって何か都合のいい話が聞けるかもしれないという期待があったのだとしたら、それはあまりにも虫がよすぎます。15節にあるエレミヤの言葉にもあるとおり、これまでどれほどエレミヤの言葉を聞いても悔い改めようとはしなかったのですから、最後の最後に何かいいことが聞けるのではという期待が少しでもあったのだとしたら、それはあまりに身勝手で図々しいと言わざるを得ません。ただそれでも神に期待し、すがる思いでエレミヤの言葉を聞きたいと願うことはあり得るかもしれません。振り返って考えてみると、ゼデキヤという人はそんなにひどい人ではなかったのだろうと思います。少なくともヨヤキムよりはまだ聞く耳を持っていたと感じますし、エレミヤの言葉を聞いて負い目を感じるくらいの良心は持っていたのではないかと言えるくらいの対応はしてきたように思われます。ただ、エレミヤはそんな彼のことを信用できません。それは当然でしょう。エレミヤにすれば、自分の言葉を正しく聞いていると感じ取れるような応答はゼデキヤから得られたことがありません。だから彼はゼデキヤに対し語ることを拒もうとします。しかしゼデキヤは何としてもエレミヤの言葉を聞こうとしてひそかに誓い、決してエレミヤに危害を加えるようなことはしないというのでした。
 ここにある言葉や態度には、いよいよ行き詰まってきたこの状況で彼が悩んでいるし迷っていることが表れているように感じられます。これまでもエレミヤの言葉を繰り返し聞いてきましたから、エレミヤが何を語るかは聞くまでもなく分かっていただろうと思います。それでもどうしても聞きたいと思ったのは、本当に行き詰まってしまってどうすればよいのか判断がつかないし、決断ができないという状態に追い詰められていたからでしょう。だから彼はもう一度エレミヤにあって彼の言葉を聞こうとします。聞くことで何かしら整理がついたり、踏ん切りがついたりすることをどこかで願っていたのかもしれません。わたしたちもどうすべきかはよく分かった上で誰かに意見を求めることがあります。ゼデキヤも、本当は自分がどうすべきなのか分かっていたのかもしれません。バビロンに攻められる中でエレミヤの言葉を繰り返し聞こうとするのは、どうしていいか分からないからというよりは、分かってはいるけれど決断ができないからのようにも思われます。しかし、彼の中にどんな思いがあったにせよ、彼は最後まで決断しないままでした。彼のことを優柔不断と表現する人もありましたが、そう言われてもしかたない態度を彼は示しています。彼がエレミヤを呼び出したのは神殿の第3の入口でした。それがどんな場所なのかはよく分かりませんが、おそらく他の人には知られずに話ができる場所として選んだということでしょう。またエレミヤが1度は語ることを拒んだあと、彼は決して危害を加えないと誓いますが、その誓いはひそかになされたものだと16節は記しています。これは他の誰かが聞いていたらこのような誓いを立てることはできなかったということを示すものだろうと説明している人がありました。そのように、このエレミヤとの会談は他の誰にも知られないように秘密の内に行われました。そして会談が終わるときもゼデキヤは、このことは誰にも知られないようにしようと言います。そうするのはエレミヤを守るためだと言います。それもあるでしょうが、彼自身が危機に陥らないためでもあったのではないかと思います。そこまで考えてはいなかったかもしれませんが、しかしこの会談がどこまでも秘密に行われていることを考えると、無意識のうちにではあったとしても彼が自己保身を図っていることは間違いないと言わざるを得ないでしょう。彼は、戦いを主張する人々に対してはその意見に賛成するような態度を示しながら、しかしエレミヤに対しても少なからぬ好意を抱いていました。彼はずっと2つの間で迷い続けてきたのですが、そういう決断の先送りがゆるされない危機的な状況におかれています。本当はこれまでもそうだったのですが、今はまさにどういう選択であれ決断をしなければならない状況にあります。にもかかわらず、彼はここでも何かを選ぶという決断を先送りにして、どっちつかずのまま彼は王位にあり続けます。その態度はこれまでと何も変わらないままでした。
 そうせざるを得ない理由として19節では、すでにカルデア軍に投降しているユダの人々のことがあげられています。なぜ彼らがゼデキヤを憎むのかは説明されていませんが、無駄な戦いを続けて自分たちを苦しめたという恨みなのかもしれません。それはその通りと言う他ありませんが、しかしそれが理由で降伏しにくいというのも無責任な話です。この言葉だけを見れば、彼の心がエレミヤの勧めに従って降伏することに傾いているようにも思われます。できればそうしたいと思っているのだけれど、最後の一歩が踏み出せない。そんな気持ちがこの言葉にはにじんでいるように感じられる気がします。その意味で言えば、あとほんの少し勇気があれば神の呼びかけに答えることが出来たのではないかとも思われます。でも、最後のあと一歩を踏み出すかどうかは彼にとっても、またユダの国にとっても本当に大きな分かれ目でした。エレミヤの言葉が繰り返し告げてきたとおりです。もし従えば彼も、民も生きながらえることができます。しかしもし従わなければすべてを失うことになる。神は何度もそう警告してこられたのです。それを聞きながら、そして神の呼びかけに答えたいという気持ちをどこかに持っていながら、最後の一歩を踏み出せないことがすべてを破滅させることになってしまうのでした。
 鋤に手をかけて後ろを振り返るものは神の国にふさわしくないと主イエスは言われました。神の招きを受け、決断が求められるとき、それを先延ばしにしたり後回しにしたりすべきでないということだと思います。わたしたちはいろんな場合に様々な理由をあげてそうしてしまいがちです。まだ時がある間に神の招きに答えることができるよう備えをしていなければならないと思わされます。神はユダの国がいよいよ追い詰められているこのときにも、まだゼデキヤに救いの道を開いていてくださり、正しく道を選び取るよう招いていてくださいます。最後の最後まで神は決してあきらめてはおられません。だからこそ、その招きを無にしないでちゃんと受け止め、それに応えることが大切なのだということを教えられるように思います。

《今週の祈祷主題》「イースター礼拝を覚えて」
次の主の日、主の復活を記念するイースターを迎えます。主が復活させられたことによって罪と死は打ち破られ、永遠の命にあずかる道が開かれました。永遠の命とは主なる神とのいつまでも絶えることのない交わりの中におかれることです。神を父と呼ぶことのできる幸いを覚えながら、神の子として生きる新しい命に生かされていることへの感謝と讃美を言い表す礼拝とされるよう祈りつつ備えましょう。