祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。週に1つずつ入れ替えます。

 

※最近、更新ができておらず申し訳ありませんでした。



 

イザヤ書63719

 

 この箇所にはとりなしと嘆きという見出しがつけられています。これが語られたのは、バビロン捕囚が起こったあとの状況を背景としていますが、これまでと違い、まだ解放が起こる前のことと考えられます。18節に「まもなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました」と言われています。これがバビロンによるエルサレムの破壊をさしていることは間違いないでしょう。それが多くの人にとってあり得ない悲惨な出来事ととらえられたは当然のことと言えます。エレミヤの預言によれば、本当は、バビロンに反抗せず従うことが神のご意志でした。それまで神に背き続けてきたイスラエルの罪に対して神がお怒りになった結果として、バビロンが呼び寄せられたのだからです。けれど、エレミヤの預言を受けとめる人はほとんどいませんでした。むしろ多くの人々は、それから約100年ほど前、アッシリアによる攻撃を受けながらもエルサレムだけは不思議に守られた経験の方を信頼したのだろうと思います。今度もこの都は守られるに違いないと、多くの人は考えていたのではないでしょうか。しかし、その期待とは裏腹に、バビロンはエルサレムを蹂躙していきました。それがどれほどの衝撃であり、悲しみであったかは想像に難くありません。その痛みや苦しみがここにある言葉の背景になっています。ただし、読んでお分かりのように、捕囚から解放されて帰って来た人たちがいるというようなことはうかがわれません。むしろ、破壊されたままの都に呆然と立っている人が語っているような印象を受けます。帰ってきてからも苦闘は続きましたから、そのとき語られたと考えることも可能かもしれませんが、印象としては、破壊からそんなに時間がたっていないような生々しさを感じます。なので、状況としては捕囚がまだ続いているとき、エルサレムに残された人の言葉として語られていると考えることができます。破壊され尽くした都を見ながら、神に助けを求めて訴えかける祈りの言葉としてこれは語られています。

 

 その際、この人は神がお示しになった恵みを思い起こすことから語りはじめています。ここでは「心に留める」となっていますが、他の聖書を見ると「語る」とか「語り告げる」と訳されています。そちらが原語に忠実なのだと思いますが、語るといってもただ昔話をするとか、ただ言葉に出してみるということでなく、過去にあった神とイスラエルの結びつきを思い起こすためと考えられます。そしてそこにある恵み深い神の関わりを、神に助けを求める手掛かりにしようとしているのです。ここにある神とイスラエルの関係について語る言葉は、心に響いてくるものがあります。「彼らはわたしの民、偽りのない子らである」と神が言われたとか、「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし」といった言葉は、神がこの民に対してどれだけ心を傾けて関わってこられたかをよく現しています。7節に「主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」とありますが、神は本当に力を尽くし、心を尽くしてこの民を愛されたのだと思います。そのことが何よりもよく表れているのは出エジプトの出来事と言えます。1114節でそのことが思い返されています。エジプトで奴隷だったイスラエルを助け出し、自由の身としてくださったあの出来事は、奇跡という以外にない出来事でした。ここでも触れられる葦の海での出来事は、神以外にはなし得ないことです。神は彼らをあえて葦の海に導くことによって、彼らの神であるお方がどれほどのお方であるかを示されたのです。本当なら、そのことに力づけられて、このお方のあとだけに従っていく民となるはずでした。しかし、10節で言われるとおり、彼らは神に背きます。それは出エジプトの旅の途中からすでにそうでした。また、カナンに入ってからもそれは変わらず、結局、彼らは自ら滅びを招き寄せることになりました。これはその結果を目の当たりにして語られていることになります。

 

 そのような歴史をふまえながらこれは神に激しく訴えかけます。それが15節以下です。ここで語られている言葉を見ると、まるで神が間違ったことをしていると言っているように聞こえます。それはとりわけ17節で「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心を頑なにして、あなたを畏れさせないようにされるのですか」と言われていることに表れています。自分たちが頑なに神に背き続けたのは神のせいだと言わんばかりの言葉です。もちろんそんなことが言いたいわけではありません。心を頑なにし、神に背き続けた罪の責任は間違いなく民の側にあります。けれどこの人は、その罪から解き放たれ、神に向き直る力が自分たちにはないと認めているのではないでしょうか。心を入れ替えてとしばしば言われますけれど、そんなに簡単に心は入れ替わったりしません。ましてや罪に傾くわたしたちのあり方は、わたしたちが何かを心がければなおるようなものではありませんし、努力すれば傾き方が変わるということも起こりません。わたしたち自身ではどうやっても罪の束縛から逃れることはできないのです。イスラエルの長い歴史はそのことも証ししています。だからこそ神に頼る以外にはないのです。神がイスラエルに対して示してくださった多くの恵みと憐れみと豊かな慈しみにすがる以外、この罪の悲惨さから解放される道はないと、これは言っているのだと思います。15節で、あなたの熱情と力強いみ業はどこにあるのですかと言われていることや、あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていてわたしに示されません、と言われていることは、神だけがわたしたちを助けることがおできになるのに、という思いの表れですし、16節の言葉は、だからこそ神に助けを求めずにいられない切実な思いの表れと言えるのではないでしょうか。自分たちの罪が招いた悲惨な現実を目の当たりにしながら、その痛みの中で必死に神に助けを求める、その真剣さや痛さを感じる箇所のように思いました。

 

 

 

《今週の祈祷課題》「中会ジュニア青年部修養会のために」

 

コロナ感染状況を考え、9月に延期となりましたが、中高生世代がよい交わりの中で刺激を受け、霊的に成長できる機会が作られていくように、またそのための奉仕者が与えられるようお祈りください。

 


 

イザヤ書6316

 

 今日読んだのは63章の始めの部分ですが、ここは少し黙示文学を読むような印象を与える箇所です。預言者は幻を見たのか、夢を見たのかはわかりませんが、おそらくエルサレムの町の入口に立つ守衛か兵士が町に近づいてくる人物について問いただす様子が描かれます。その人物はエドムから、またボツラから来るといわれます。エドムはイスラエルから見て東に位置する民族で、長く争い続けてきました。ボツラはそのエドムの中心的な町の名前です。ただ、ご存じのように、エドムの祖先はヤコブの兄エサウであって、もともとをいえばイスラエルとは兄弟とされる人々です。しかし、エサウとヤコブの間にあった確執にも表れているように、近いがゆえに争いあうことも多かったのかもしれません。決定的だったのは、エルサレムがバビロンによって破壊されてしまったあと、エドムの人々がエルサレムに来て略奪行為を行ったことでした。そのときのことを背景にして語られたと思われる預言がオバデヤ書です。あまり読んだことがない書かもしれませんが、それを見ると、バビロンがエルサレムを破壊し、略奪を行ったとき、エドムもバビロンの側に立って同じように略奪を行ったのだろうと思われます。たとえば、11節の最後で、バビロンがエルサレムをくじ引きにしてとった日にお前も彼らの一人のようだったと言われますし、13節の後半では、その災いの日に彼らの財宝に手を伸ばしてはならない、と言われています。そうした行為のために、エドムは厳しく糾弾されています。しかしこのイザヤ書の場合、具体的にエドム人のことが言われているというよりは、エドムに象徴される敵のことを表していると考えられます。そのことは、3節で「わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ」と言われていることや、6節で「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり」と言われていることにも表れています。ここではその敵対する勢力を攻撃して滅ぼした人物が近づいてくる様子が描かれます。

 

 その人物が誰なのかははっきり言われていませんが、書かれてある内容から見て神であることは間違いないでしょう。神が敵対する勢力と戦い、勝利を収めて帰ってこられる。ここにはそんな様子が描かれています。ただし、その勝利した姿は何か凄惨なものを感じさせます。その装いは赤く染まり、その衣は酒ぶねを踏む者のようになっていると2節では言われています。衣が赤く染まっていることについては、3節後半で「それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」と説明されています。そうなったのは、諸国の民を酒ぶねに入れて踏みつけたためです。本当にそうしたというわけではもちろんありません。たとえば哀歌115を見ると「主は酒ぶねを踏むかのように娘ユダのおとめらを踏みにじられた」と言われています。時代はずっと後になりますが、黙示録141920では、天使が地上に鎌を投げ入れてぶどうを取り入れ、それを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れると、その桶は都の外で踏まれた、と言われています。そのように、「酒ぶねを踏む」という表現は神の怒りによる裁きが行われることを表す表現として用いられます。ここでも、神は敵対する勢力に対して激しく怒り、厳しく裁きを行われることが言い表されます。

 

 では神は何に対してそのように怒られるのでしょうか。それは4節の「わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来たので」という表現に表れていると思われます。報復とか贖いという言葉で表現されるのは、神がご自身に受けた何らかの損害に対して報いをお与えになることです。ですが、この場合、贖いの年と言われているように、神ご自身が何か傷つけられたことに怒っていると言うよりは、神から奪い取られた何かを取り戻すために神が戦われると言うことでしょう。そしてその何かとは神の民イスラエルに違いありません。何度もふれてきたように、イスラエルは捕囚から解放されエルサレムまで帰って来ました。しかし、帰ってからの歩みはまだまだ厳しいものでした。その厳しさを生み出す1つの要因が、ここで神の怒りを向けられている諸国の民だったのでしょう。神の民が立ち上がって歩み出そうとするのを妨げたり、くじいたりしている人々、そんな人たちと神ご自身が戦い、打ち破られるということをこれは告げています。

 

 現実の厳しさの中で人々は力を失いそうになっていました。それはこれまで繰り返し見てきたとおりです。預言者は、そんな人々に向かって、神は必ず勝利を得、救いをもたらされると告げます。その戦いは非常に厳しいものかもしれません。まとう衣が赤く染まるという描写は、裁きの厳しさや荒々しさを感じさせますが、神がそこまで激しく怒り、戦わねばならない相手であるということを表していると言えるでしょう。そこには、神以外のだれによっても打ち破ることができない敵であるという意味あいがあるのではないでしょうか。それはまた、「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ」とか「助ける者はなく、支えるものはいなかった」と言われていることにも表れています。そんな相手と向き合わねばならないイスラエルは大変です。しかし、いつかは分からないけれど、そのような敵も必ず打ち破られるときが来ます。それは将来の希望です。その希望に支えられて、今の厳しい現実の中を一歩ずつ進んでいくよう預言者は励まそうとしているのだと思います。

 

「中会815講演会のために」

 

週報には長くなるのでのせていませんが、講演題には「侵略戦争と憲法改悪の状況を見据えて」という副題がついています。不安定な社会情勢の中で不安があおられ、間違った方向へ進んでしまうことがないよう、目を覚まして祈りつづけているために改めて学ぶときとなるよう祈りましょう。

 


 

イザヤ書62612

 

 62章は「シオンの救い」という見出しがつけられていますが、これが語られたとき、すでにイスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰って来ています。帰ってきたのは民全体ではなく少数だったと言われていますから、第2イザヤが語ったような輝かしい帰還とはいきませんけれど、それでもとにかく解放は実現し、人々は故郷の地に立っています。けれど、それにもかかわらず人々は落胆していました。状況が思っていた以上に厳しかったからです。そんなときこの預言者がたてられました。彼はエルサレムの栄光が回復されるときまで黙らないと言います(1節)。それは、心くじけたこの人々と最後まで共に歩み続けるという宣言です。そしてその「黙らず語り続ける」という働きを共に負う人々がたてられます。それが6節で言われている「見張り」であり「主に思い起こしていただく役目の人」です。これが神によってたてられる人のことなのか、預言者によってたてられる人なのか、意見が分かれています。ただ、どちらにしろ、その役目は神が黙り込んでしまわれることがないように叫び続けることです。

 

 けれど神は、誰かが注意を引き続けていないと、人を見過ごしたり、忘れたりするようなお方なのでしょうか。そんなことはないはずです。神はご自分のなすべきことをうっかり忘れたりはなさいません。ご自分の民が今、どんな状況に置かれているか、誰かに助けてもらわないと関心が保てないわけではないのです。その意味で言えば、休まず叫び続けている人がいなくても、神はご自分のなすべきことを行って行かれます。そう考えると、城壁の上で見張りをするというのは、神を助けるためというよりは、人々の中で神への注目が途切れてしまわないために語り続けるということではないかと思います。主の沈黙を招いてはならないと7節で言われます。このとき人々は、帰っては来たものの、思うように再建が進んでいかない現状に疲れ、あきらめそうになっていました。人々はその状況を「神の沈黙」ととらえていたと思われます。第2イザヤと呼ばれる預言者が語ってくれたとおり、バビロンから解放され、帰って来ることはできました。人々は、エルサレムに帰ることで祝福された日々が始まっていくのだろうと考えていたかもしれません。しかし実際は、思い描いていたものからはほど遠い状況が続いています。その現実を前にして、人々は「神は我々のためには何もしてくださらない」と感じていたはずです。それは、まだバビロンにいた頃に味わっていたのと同じ思いです。第2イザヤの言葉である50:2には「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」とあります。第3イザヤと呼ばれる預言者も、59:1で「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」と語っています。第2イザヤが繰り返し、神に忘れられた、捨てられたとつぶやく人々の思いについて触れていたことを思い返します。第3イザヤが語りかける人々もまた同じ思いにとらわれていたのではないでしょうか。だからこそ、昼も夜も主に向かって語り続ける役目の人が必要だったのだと思います。自分たちが眠り込んでしまわないために、自分たちは神の前に置かれていて決して忘れられてはいないのだということを忘れないために、人々の代わりに祈り続けてくれる人がいなければならなかったのではないでしょうか。

 

 だから8節では「主はご自分の右の手にかけて、力ある御腕にかけて、誓われた」と言って、神がお語りになったことは間違いなく実現すると語られます。神の約束は必ず成し遂げられるのです。だから今なすべきことに力を尽くそうと預言者は呼びかけます。10節以下は神が成し遂げてくださる救いの実現について語りつつ、今、民がなすべきことに取り組むよう教えています。土を盛り上げて広い道を備え、石を取りのぞく。それは、遠くから民が帰ってくるための道を準備することです。それは神がしてくださることではあるけれど、同時に、先にエルサレムに帰った人々が取り組まねばならないことでもあると言えます。人々は、何もせずただ待っているのでなく、ここで神と共に生きていくために町の再建に取りかからなければなりません。それを実現させてくださるのは神だとしても、その神のもとで、神と共に働くことが今の彼らの役目です。神と共に生きることはすでに始められています。これまで、神が彼らを忘れているときなど一度もありませんでした。たとえ捕囚というとらわれのときであっても、神が沈黙しているときなどなかったのです。今一度そのことを思い起こし、新たに始められた約束の地での歩みを神と共に生きていくために、見張るものが必要なのです。その働きは今も教会に受け継がれていると言えるかもしれません。わたしたち自身が目を覚まして神と共に生きるものであるために、そのことを通して今のこの社会の中で見張りの役目を果たしていくために、わたしたちも神に向かって祈り続けていたいと思いますし、神と共に働くものでありたいと思います。

 

《今週の祈祷主題 》「新型コロナウィルス感染終息のために」

新規感染者数が予想以上に増えてきました。できることは変わりませんが、それぞれ注意しながら過ごしましょう。そして、感染症の広がりがすみやかに静まると共に、様々な困難を覚えている多くの人々が支えられるよう祈りましょう。

 


イザヤ書6215

 今日は62章ですが、ここにはシオンの救いという見出しがつけられています。今はまだ廃墟のようなこの町が、やがて光栄ある姿を取り戻すことになると預言者は語っています。

 1節では、その時が来るまで、わたしはシオンのために決して口を閉ざさないと言われます。この「わたし」を神ご自身と解釈する人もありますが、預言者ととるのが自然と感じます。シオンのため、エルサレムのために預言者は決して口を閉じず、語り続けるというのです。それは、エルサレムの正しさが輝き出で、その装いが松明のように燃え上がるまでだとされています。2節でも「あなたの正しさ、あなたの栄光」という表現が繰り返し用いられています。エルサレムの正しさが輝き出るというのは、具体的には町の再建が完成し、かつてのような姿を取り戻すときのことを指していると考えられるでしょう。ただ、それをエルサレムの正しさと表現するのは少しわかりにくい気もします。それではまるで、エルサレムが再建されるのはエルサレム自身が正しくあり続けたことへの報いだといわれているように思えるからです。もしそうだとすると、その時が来るまで預言者が口を閉ざさず語り続けるというのは、エルサレムにはそれくらいしてもらえるだけの資格があると主張し続けるとことだと理解できるでしょう。けれど、実際にはそんなことはあり得ません。先週もふれたように、町が破壊され、「捨てられた女」とか「廃墟」と呼ばれるような状態に陥ったのはエルサレム自身の罪のためでした。神に従おうとせず、頑なに背き続けたことが破滅を招いたのです。そのことを考えれば、エルサレム自身のどこかに、正しいと判定されるような要素があるとは思えません。にもかかわらず、そんなエルサレムの正しさが輝き出るときが来るのだとしたら、それは、神が、ただご自身の憐れみのゆえに、もう一度この町を、またこの町に住む民をご自身のものとして取り戻してくださるからとしか言い様がありません。「正しさ」とは、神との正しい関係の中に置かれることです。そしてその正しさは、神が賜物として与えてくださるものです。2節の最後に、主の口が定めた新しい名をもって呼んでくださる、とあります。名前が新しくなるということは、まったく新しい歩みが始まっていく転機が訪れることを意味します。今はうなだれている人々も、もう一度、神の民としての歩みを始めて行く時を迎えます。それが新しい名で呼ばれるときです。そしてその時は、神が新しい名をもって彼らを呼んでくださることによって始まるのです。それは、ただ神ご自身の業として行われることであり、それゆえ恵みの賜物としか言いようのないことです。でも、そうであるからこそ預言者は確信をもって語ることができます。可能性はただ神ご自身にあって、エルサレム自身の中にあるのではないから、だからこそその時は必ず来ると語ることができるのです。預言者が語り続けると言っているのは、このことではないでしょうか。誰があきらめたとしても、わたしは信じて語り続ける。その時は必ずやって来るのだから、と預言者は告げているように思います。

 預言者がそのように言うのは、人々が預言者のようには信じることができないでいるからです。このとき人々は、帰っては来たものの、失望し、心が折れそうになっていました。そんな人々を、神は必ず約束してくださった将来にたどり着かせてくださると、預言者は励まします。そのときが来るまで、預言者は、この心くじけた人々と共に神を仰ぎながら歩み続けるのです。

 

≪今週の祈祷主題≫ 「夏期学校のために」

 

この2年行えなかった夏期学校を行おうと計画しています。ただし、例年のように出かけて宿泊することは控え、教会で行います。限られた時間と場所ですが、その中でも子どもたちどうし、また教師などの大人たちとの交わりが深まり、主にあって共に成長する機会となるようお祈りください。