祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。週に1つずつ入れ替えます。

 

※更新が不定期になってしまい申し訳ありません。



 

エレミヤ書81423

 

 今日読んだのは敵の攻撃という見出しがつけられている箇所です。北から敵が攻めてくる様子を思い浮かべながら、絶望的な思いに沈む民と預言者の様子が描かれます。

 

 まず1415節では民の声が取り上げられます。これを語るのは、エルサレムの外にいて、敵が近づいてくることに気付いた人たちです。その人たちが「エルサレムに行こう」と互いに呼びかけあっているのがこの言葉です。何のために我々は座っているのか、と初めで言われます。この言葉からは、敵が近づいてくることに気付いていながら、何もできずにいるという様子がうかがわれます。それは、何かをしようにも敵が強すぎてどうすることも出来ないということなのでしょう。ただ、そのまま何もせずにただじっと座っているだけでは本当にどうしようもありませんから、城壁に囲まれた都に逃げ込もうと呼びかけあっているというのがここで言われていることだろうと思われます。ですが、たとえエルサレムに逃げ込んでも、結局は滅びることになってしまうと人々は自覚しています。なぜなら、この災いは神から送られるものだからです。「我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる」と言われています。毒の水を飲ませるという言い方はあまり聞かないかもしれません。それを主なる神がご自分の民に飲ませると言われるのを聞くと、少し驚きます。ただ、エレミヤ書で他にこの毒ということが出て来る箇所を見てみると苦よもぎとセットになっているのが分かります。たとえば、2ページあとの914にあります。その場合の苦よもぎと毒の水は、神がイスラエルを滅ぼすために下す裁きのことを表しています。その裁きがどんなに厳しいものかを、この毒の水を飲ませるという言い方で表現していると言えるでしょう。そこには、神の激しい怒りがあると感じますし、ユダの人々もそのことを自覚しています。「我々が主に罪を犯したからだ」と14節の最後で言われています。北から敵が攻めてくるのは、敵たちの政治的な思惑から起こっていることでなく、ユダの人々が神に背いたことに対する神の裁きの表れなのだと、彼らは自覚しているのです。だからこそ、この敵に対しては何もすることは出来ないと考えているのでしょう。

 

 ただ、そんなふうに思うのなら、なぜエルサレムに行こうと考えるのか少し不思議です。たとえばイザヤが預言したときのように、敵がどんなに攻撃してきてもこの町だけは持ちこたえることが出来ると信じているのであれば、みなで都に逃げ込もうと呼びかけるのは分かります。ですが、たとえ城壁に囲まれた町の中に入っても敵から逃れることが出来ないのだとしたら、もはやそんな町は捨ててどこか遠くへ逃げていくことを考えるものではないでしょうか。なのに、なぜこの人たちは、何もできないと分かっているにもかかわらず、都に行こうというのでしょう。普通に考えるとその行動はよく分からないものです。ですが、彼らはこんなふうに呼びかけ合っていながら、本当はどうすればいいのか分からなくなっていると言うことかもしれません。他にふさわしい逃げ場所があるならそこへ行くことも考えたでしょう。でも、どこへ行けばいいのか、彼らは分からないのです。それくらいこの事態に絶望しきっていると言うことかもしれません。本来なら、どこかへ逃げるというのはあきらめきっていないことの表れです。ほんのかすかかもしれないけれど、まだどうにか出来るのではないかと思うところがあるから、エルサレムへ逃げ込もうと考えるのだと思います。あるいは、エルサレムがダメなのであれば、エルサレムを捨ててどこかへ行こうと考えるでしょう。けれど、そんなことさえ考えられないほど、もうダメだと思っていたし、絶望しきっていると言うことととらえておいてよいだろうと思います。神の裁きの厳しさと、それほどの裁きを招いてしまった自分たちの罪の深さへの重いがそうさせていると言うことでしょう。

 

 1617節の言葉も、そんな思いを表しているように思われます。前にも出て来ましたが、ダンはイスラエルで言うと一番北のはずれにある地名です。エルサレムからするとはるか彼方の場所ですが、そんな遠くにいる敵の軍馬のいななきが聞こえてくると言うのです。それは、敵に対する恐怖心の大きさを表しているといえます。また同時にそれは、そんな敵を呼び寄せる神の裁きの厳しさへの恐れでもあります。そんな敵がやってくれば、都は全滅してしまう以外にないだろうと考えていることが、16節の後半から17節の言葉が表しています。

 

 そのように、北から敵がやってくるときの絶望的な様子がここには表れているわけですが、そんな民の姿を見て嘆くエレミヤの思いが述べられます。18節と20節以下です。神の裁きを受けて滅びようとしている民の様子は絶望的なものです。それを見てエレミヤ自身の心も弱り果てそうになります。それについて20節では、刈り入れの時は過ぎて夏が終わったけれども我々は救われなかった、と言う言い方で表されます。刈り入れの時とは、夏前、ちょうど今ごろの季節で小麦などの穀物の収穫の時期です。その頃、イスラエルでは7週の祭りつまり五旬祭が行われます。そして夏が過ぎる頃、今度はぶどうなどの収穫時期がやって来て、仮庵の祭が行われます。それらの祭は神との契約を繰り返し思い起こし、更新する機会でもありました。しかし、その時が来ているのに救われなかったというのは、神との契約が更新されず、神との関係が切れてしまったということを表しているように思われます。そんなことさえ考えさせられるような民の現状を見ながら、エレミヤは、ギレアドに乳香がないというのか、そこには医者がいないのか、どうして傷がいやされないのか、と語ります。ギレアドはヨルダン川の東側の地域ですが、そこでは薬としても使われる乳香がとれたそうです。民はこれほど傷つき、倒れしまっているのに、それを癒す方法がないということに、エレミヤは深い嘆きを覚えています。21節はその悲しみがどれほど深いものだったかを表現するものです。これほど深く悲しみを感じ、しかもそれをこんなふうに表現する預言者はほかにないように感じます。ホセアも、神から命じられたとおりにはしていますけれど、彼自身の気持ちとしてはかなり複雑だっただろうと想像は出来ます。けれど、ホセア自身の迷いや葛藤のようなものは特に語られません。それに対してエレミヤは、彼自身の心の内にある深い痛みを隠すことなく表現します。彼が民と共に、あるいは民の中に立ちつつ神と向き合っていることがよく分かります。預言者というのは、本来、そういう役目を担うのだと思います。そして、おそらくどの預言者も、同じようなことを味わいながら働いたのだろうと思うのです。中でもエレミヤは、こうやって彼自身の言葉としてそれが語られていますから、預言者の務めを果たすことの厳しさがよく分かります。ただ、彼がこのように深く悲しみを味わっていると言うことは、エレミヤ自身の感性の豊かさの表れでもあるでしょうが、それは神ご自身がこの民のことをどれほど思っておられるかの表れでもあるのではないかと、ここを読みながら思いました。神は罪深いユダの民に対し、厳しい裁きを下そうとしておられます。でも神は、機械的に法律を執行しようとしていらっしゃるわけではないでしょう。ご自分が愛し、選んだ民が罪を犯し、ご自分から離れていってしまったのです。その罪を裁かなければならないということを深く嘆いておられるのは神ご自身ではないのだろうかと感じました。エレミヤの深い悲しみは、それを映し出しているものとは言えないでしょうか。それほどに、民が犯してきた背きは罪深いものだと言わねばならないのだと思います。ここに述べられる民の絶望が、その罪を嘆くことへとつながることを神は願っておられるでしょう。そう願いつつ、神はこの人々をお裁きになるのだと思います。エレミヤの悲しみを見ながら、そんな神の憐れみの深さを覚えさせられる気がしました。

 

 

 

《今週の祈祷主題》「伝道と教会形成のために」

 

ペンテコステは教会の誕生日と言われます。主の委託と派遣を受けた弟子たちが、聖霊なる神の臨在のもとで主の証人として働き始めた日だからです。わたしたちに与えられている主の委託と派遣は変わりません。今もわたしたちと共に働き続けておられる聖霊なる神のもとで、主から託された伝道と教会形成という務めを果たしていくことが出来るよう祈りましょう。