祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から(Zoom併用)

 



エレミヤ書43:1〜7
 今日読んだのは、エレミヤの言葉を聞いた人々の反応を記した箇所でした。バビロンによってユダは滅ぼされ、その後の統治は総督としてたてられたゲダルヤにゆだねられました。しかしそれをよしとしないイシュマエルがゲダルヤを暗殺してしまったため、バビロンによる報復を恐れた人々はエジプトへ逃げていこうとします。しかし、実際に逃げ出す前にエレミヤに、神に祈ってほしいと願いました。当然それは神がどうすべきかを示してくださることを願ってのことです。その願いを受けてエレミヤは神に祈ります。それから10日後、エレミヤが告げた神からの答えは、バビロンを恐れずにこの場所に留まってバビロンに従いなさいという内容でした。それに対して人々がどのように応答したかを今日の箇所は記します。
 人々が示したのは明確な拒絶でした。ホシャヤの子アザルヤやカレアの子ヨハナンたちは「あなたの言っていることは偽りだ」と言ってエレミヤの言葉を完全に否定します。その理由として彼らが申し立てたのはバルクの悪意です。神がそんなことをいうはずはないから、きっとエレミヤはバルクにそそのかされているのであって、バルクはエレミヤと自分たちを対立させて残った者をバビロンへ連れ去らせるか、このままバビロンに殺させようとしているのだと彼らは主張します。もちろん彼らの主張には何の根拠もありません。彼らは「エジプトに逃げなさい」という答えを聞きたかっただけです。彼らはそれ以外の答えはあり得ないと考えていたのでした。
 彼らがそんなふうに頭からエレミヤの言葉を否定するのは、どうしてもエジプトに逃げたいと考えていたからです。もともとはそこまではっきり決心していたわけではなかったのかもしれません。先週もお話ししましたが、エレミヤに願ってから答えが与えられるまで10日間かかったことが影響したということも考えられます。神に祈ってほしいと願ったときの状況はとても緊迫していました。ゲダルヤが殺されてしまった以上、いつバビロンの軍隊が派遣されてくるか分かりません。そんな状況で答えを待ちながら過ごす1日、1日はとても厳しいものだったはずです。バビロンに対する不安の中で日々おびえながら10日間も待ち続けたことで、彼らはもはやじっとしていられなくなるほど緊張が高まり、怖さが大きくなってしまったのではないかと思います。そんな彼らにとっては、答えは1つしかあり得ませんでした。それは「エジプトに逃げる」ことです。とにかくじっとしていずに何かをしないではいられないという気持ちの高まりの中で、エジプトに行くということだけが彼らの頭を占めてしまっていたのでした。
 それはもともと彼ら自身の中にあった願いでした。これも先週見た通りですが、エレミヤは人々の願いを聞いて応えたとき、「あなたたちはわたしを主のもとに遣わし、あなたたちの願いを受け入れてくださるよう求めさせたが」と言っていました。人々は、エレミヤに神へのとりなしを願ったときすでに願いを持っていました。その願いは「エジプトに逃げること」です。そしてその願いを神が聞き入れてくださることを期待していました。エレミヤを通して神に願えば、神は自分たちの思いに応えて「エジプトに逃げていい」と言ってくださるのではないかと考えていたのです。もちろん、それが自分たちに残された唯一の道だと確信していたのなら、はじめから「エジプトに逃げることをゆるしてほしい」とか「そうするから守ってほしい」と祈ってほしいと言ったかもしれません。しかし彼らはそうは言わず、どんなことであれ神が示されることに従いますからと言ってエレミヤに願いました。それは完全な建て前だったとは思いません。そのときは逃げたいと思う気持ちは持ちながらも、それが唯一の道だという確信まではなかったのだろうと思います。ゲダルヤ暗殺という出来事が起こってからすぐのことでしたから、まだ人々の中にも混乱があったでしょうし、今すぐ逃げると決断して動き出すにはためらいもあったでしょう。だからエレミヤを通して神のご意志をたずねたいと思ったのだと思います。けれど、彼らはそのときすでに「エジプトに逃げるのが最善ではないか」という思いをどこかに持っていました。その思いが、答えを待ち続ける緊張や不安の中でどんどん大きくなってしまったのではないでしょうか。もしも神がエレミヤにすぐ答えを返しておられたら、ひょっとしたら彼らの行動は違っていたかもしれません。しかし、10日間待ち続ける中で、彼らの心は決まってしまいました。だから、神がエレミヤを通して何を語られても、エジプトに逃げること以外は考えられません。その思いを押し通そうとして、エレミヤの語ることを偽りと決めつけました。そしてヨハナンたちを指導者とするこのグループはエジプトに逃げていくのでした。
 ここには神に対する人間のかたくなさがよく表れています。わたしたちはどうしても耳の痛いことは敬遠して、自分の聞きたいことを聞こうとしてしまいます。それは人に対してもそうですが、何より神に対してそうなのだということを思わされます。エレミヤは真実の預言者とも呼ばれますが、その呼び名の通り、神がお示しになることをその通り語ってきました。それが自分にとって不都合な状況を生み出し、苦しみや悲しみを味わわねばならないこともしばしばでした。そんなとき、彼はまるで神と格闘するようにその痛みを神にぶつけて祈ることもします。それでも彼は与えられた通りのことを語り続けました。人々がそんなエレミヤをときにあざけり、迫害しながら、厳しく対立してきたことは読んできた通りです。しかしバビロンの攻撃を受け、ユダが滅びたとき、エレミヤの言葉が真実であったことに多くの人は気付いたはずです。バビロンの王でさえ敬意を持ってエレミヤに接するほどなのですから、ましてユダの人々ならなおさらエレミヤを真の預言者と認めるはずです。そして実際、ユダに残された人々の中にはそういう思いも芽生えていたと思われます。ゲダルヤはその一人だっただろうと思われます。しかし、そうやってエレミヤの言葉が真実であったと証明されたにもかかわらず、状況が変わって危機に陥ったとたん、そのエレミヤを偽物呼ばわりし、強引に自分たちの思いを貫こうとしてしまうのです。彼らをそうさせたのはバビロンへの恐怖心でした。ゲダルヤ暗殺という思いがけないことが起こってしまったことが彼らを混乱させたのは事実でしょう。その混乱の中で彼らはバビロンへの恐れにとりつかれて心がかたくなになってしまい、それ以外のことは何も考えられなくなってしまいました。こうやって人の心は神に対して閉ざされていくのだと、改めて思わされます。神以外のものへの恐れはわたしたちの心も考えも小さく、狭くせばめてしまい、本当に見るべきものや聞くべきことが何なのか分からなくさせてしまいます。それは聖書の他の箇所にもしばしば見られることです。たとえば、創世記の中でアブラハムがエジプトへ逃げたとき、妻のサラを妹と偽ったためにエジプトの王がサラを妻にしようとしたということがありました。アブラハムが妹と偽ったのはエジプト人を恐れたためです。しかもアブラハムは別の機会に同じことをもう一度行っています。人への恐れが判断を誤らせることの一つの例です。それらのことを見ると、神以外のものへの恐れはわたしたちを奴隷のように縛り付け、身動きがとれないようにしてしまうと言うことができるでしょう。それに対し神への恐れはわたしたちを自由にします。神以外のどんなものも恐れる必要がなくなるからです。神への恐れは神への信頼であり愛であると言うことができます。神がかけがえのないものとしてわたしたちを愛し、覚えてくださることに信頼しながら、神をただ一人の神として信じ、愛すること、そこに神への恐れがあります。その恐れに立つことを最後まで貫くのは難しいことかもしれません。このときの人々にすれば、バビロンへの恐怖は、イスラエルの人々が葦の海のほとりで追いかけてくるエジプト軍を見たときに感じたのに似たものだったかもしれません。あのときは前にも後ろにも進めないという絶体絶命の窮地におかれていました。しかしこのときはエジプトに逃げていくという道は閉ざされてはいませんでした。それなら、後ろから追いかけてくるバビロンから逃げてエジプトに行こうと考えるのは自然かもしれません。そこで踏みとどまって神に従うという選択をするのは本当に難しいことだっただろうと思います。それでも彼らには神の言葉が与えられていました。真に預言者であることが証明されたエレミヤが彼らにはいました。その言葉に聞くことをゆるされていることの大切さ、尊さを彼らは知っていなければならなかったのです。神の言葉を聞くことの飢饉がくるとアモスは語りました。そうなってしまわないうちに、聞くべき言葉を聴き分ける信仰を与えられたいと思います。聖霊を受けたペトロは最高法院の議員たちに「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えてください」と語りました。何を聞き、何に従うべきか、聖霊の導きに従いながら正しく聴き分けられるものでありたいと願います。

《今週の祈祷主題》「伝道のために」
今週の主日は教会の誕生日と言われるペンテコステでした。聖霊を受けた弟子たちは主の言葉どおり地の果てまで主の証人として出かけていき、福音を宣べ伝えました。今も働く聖霊なる神のもとでわたしたちも主を証しし、福音を宣べ伝えるために働きたいと願います。終わりのときまで続く神の御業に仕える群れであることができるよう、聖霊なる神の助けを求めて祈りましょう。