使徒言行録23747「新しい共同体」

 

●今日は主イエスの復活を記念するイースターの礼拝です。神は、十字架でお死にになった主イエスを三日目に復活させられました。それは、神が罪と死の力を打ち破り、わたしたちに救いの道を開いてくださる出来事でした。もし主イエスが十字架につけられたあと、葬られたままにされたとしたら、主イエスの死は罪の力に対する敗北しか意味しなかったでしょう。十字架を前に逃げ出した弟子たちは、誰一人主イエスのもとに戻ってくることはなかったはずです。けれど神は主イエスを復活させ、主イエスともう一度出会わせてくださいました。そして、一度は逃げ出した弟子たちを主イエスの証人となさいます。一度つまずいた彼らだからこそ、主イエスの死が何を意味したのか、そして復活とは何だったのかを、文字通り、自分のこととして証しするのです。そんな彼らが聖霊なる神の力によって証人として立ち上がったのがペンテコステの日であり、今日読んでいただいたのは、その日にペトロが語った説教とその結果生まれた新しい共同体の様子を記した箇所です。

 

●ペトロは、主イエスの十字架と復活について、すべては神のご計画のもとで起こったことだったと語りました。すると、それを聞いた人々は、それなら自分たちは何をすればよいだろうかとペトロたちに問い始めます。ペトロの言葉に心打たれたからです。でもそれは、感動したという意味ではありません。ペトロの言葉が心に刺さったと言うことです。ペトロの言葉にとらえられ、逃げられなくなってしまったといってもよいでしょう。それはつまり、ペトロの言葉を通して神の前に引き出されたということです。彼らは、ペトロの言うことを聞いて、自分たちが神について何も分かっていなかったのだと知らされました。そのとき、彼らは自分の罪と向き合わざるを得なくなり、神の前に恥じ入るほかなくなったのでした。

 

●神が働いておられるのに、それには何も気づかず、的はずれなことをしている。それはわたしたちもしばしば陥ることです。神が主イエスにおいてご自分の計画を成し遂げられ、それを完成させるべく今も働き続けておられると聖書は教えます。けれど、そう聞かされても、わたしたちはなかなかそのことに心を開くことができません。繰り返し、それがわたしと何の関係があるのですか、といってしまいます。とりわけ、試みの中で苦しむときはそうでしょう。神と自分とが何の関係もなくなっているように思えてしまうのです。それは、信仰のあるなしに関係なく、わたしたちの中に繰り返し浮かんでくる思いなのだと思います。しかし神は、わたしたちがたとえ神に背を向け続けていても、わたしたちのために働き続けてくださいます。そしてわたしたちを救うための計画を必ず成し遂げてくださるのです。主イエスの十字架と復活は、神がそんなお方であることを証ししています。そのお方に、わたしたちはどうお答えするのでしょうか。その問いはわたしたちにも向けられているし、一人一人が応えていかなければならないことです。そのことを、これは示しているように思います。

 

●そのことを受けとめた上で、わたしたちに備えられている救いの道があることを覚えたいと思います。ペトロは問いかける人々に、主イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、と語りました。罪を犯したと自覚するものにとって、赦してもらえると言うことは何より大きい慰めです。罪を犯してしまったという事実そのものを取り消すことは出来ません。その事実は決して変えることは出来ないものです。しかし、かつてある牧師は言いました。主イエスを信じるとき、未来が変わる、現在がかわる、そして過去が変わる。本来、過去とは変わらないものです。でもそれが、主イエスを信じるときに変わるといいました。それは、赦されるということだと、わたしは理解しています。事実が変わるわけではありません。しかし、神がご自身の権威において赦すと言ってくださるとき、わたしたちはその罪から解放されるのです。過ちは過ちとして覚え、それを自らの担うべきものとして背負いながら、しかし新しく生き直すことが赦される。神が、それについては今後一切問うことはしないと言ってくださるから、もう一度やり直すことが出来る。それが過去が変わるということです。聖霊を受けるとペトロが言うのは、主イエスを信じるとき、そうやって新しく人生を始めることができる、新しい人としてそこからもう一度歩き始めることができるということを言っているのではないでしょうか。それは、ユダヤ人であろうと、遠くにいる人であろうと、神が招いてくださるなら誰にでも与えられる賜物です。そうやって、あなたも邪悪なこの時代から救われなさい、とペトロは呼びかけました。彼は自分たちだけを聖人君子であるかのごとく語っているわけではありません。神のご意志を曲げて自分勝手に理解し、自分の考える正しさばかりを主張する罪深い人間がどんな世界を造り出すことになるか、わたしたちは実際に目の当たりにしています。それは今だけのことでなく、歴史の中で、わたしたち人間が何度も繰り返し陥ってきた過ちです。そして、わたしたち一人一人がずっと抱え続けていることです。そんな邪悪さから救われよと彼は呼びかけます。絡みつき、逃れられなくなっているその罪から解き放たれ、あなたも新しくされて生き始めるのだと呼びかけるのです。

 

●その招きに応え、信じるものとして歩み出すときに、人がどんな生き方をすることになるかを示しているのが43節以下です。そこに書かれていることはあまりに理想的すぎて、現実とかけ離れていると感じます。実際、書かれてあることを文字通りに実行しようとすることにはどうしても無理があります。財産や持ち物を売って助けあうとか、すべての持ち物を共有すると言うことはなかなかその通りにはできないと言わざるを得ません。けれど、だからこれは夢に過ぎない、といってすませてしまうだけでよいのでしょうか。こんな夢のような話ばかりせず、もっと現実的なものの考え方しなければならないと言うのでしょうか。しかし、幻のない民は滅びるという聖書の言葉があります。この聖書だと「幻がなければ民は散り散りになる」と訳されています。幻をもたない民はほしいままに振るまい、やがて散り散りになって滅んでいく。そんな意味でしょう。何を目指すのかを何も考えずにいれば、人はそれぞれ自分の願うあり方ばかりを求めます。それが必ず間違っているわけではありません。しかし、本当に目指さなければならないところがどこなのかを確かめ合っていなければ、結局、人はバラバラになって行かざるを得ないでしょう。その行き着く先は、互いを否定しあったり、誰かを排除し合うことで成り立つような世の中でしかないのではないでしょうか。罪を赦され、新しく生き始めることをゆるされたものたちは、神に思いを定め、そのご意志にかなうものであることを願いとしながら生きていきます。そうやって神をまん中にしながら、互いが結ばれて共に生きていくときに、神によって創造された人間のふさわしいあり方が表れると信じるのです。もちろん、破れもあるし、間違いも犯します。けれど、主イエスにある赦しを信じ合い、互いにへりくだりながら目標を目指し続けていくのです。その姿が民衆から好意を寄せられるものになっていったのではないでしょうか。主イエスの復活を記念するイースターの礼拝を守りながら、神が主イエスにおいて与えてくださった恵みを改めて心にとめたいと思います。そして、この恵みに心からの信頼を置いて、神の思いをわたしたち自身の思いとしながら共に歩んでいく、そんな、恵みに根ざした共同体を形づくっていきたいと願うのです。